二十
どういう訳か、それから私は、彼の手首に目をやりました。しかし、そこには別に傷痕などはありません。私は事件以来、妙に人の手首に注意する様になっていたのです。その癖が出たのでしょう。無論この愚ものの三造を疑う気持があった訳ではありません。
ところが、そうして相手を眺めている内に、私はふとこんなことを考えました。
「昨日からたびたび聞かれても、この男は何も知らないといっているけれど、それは尋ね方が悪いのではなかろうか、尋ねる人は誰も時間をいわない。殺人の行われた時間をいわないで、ただ何か物音がしなかったかと聞いている。それでは答えの仕様もない訳だ。もし時間さえハッキリ示し得たならば、この男は、もっと別な答えをすることが出来るのではないだろうか」
そこで、私は思い切って、三造にだけ時間の秘密を打ちあけて見ることにしました。
「人殺しがあったのは、一昨日の夜の十時半頃ではないかと思うのだよ」私は声を低めていいました。「というのはね、丁度その頃、僕は湯殿の方で変な叫声の様なものを聞いたのだよ。君は気がつかなかったかい」
「ヘエ、十時半頃」すると三造は何か思い当った様に、いくらか、表情をハッキリさせて、「十時半といえば、ああそうかも知れない。旦那、丁度その時分、私は湯殿にいなかったでございますよ。台所の方で夜食を頂いておりましたですよ」
聞けば、彼は仕事の性質上、就寝時間が遅くなるので、従って食事も他の雇人達よりは、ずっとおくれて、泊り客の入浴が一順すんだ頃を見はからって、とることになっているのだそうです。
「しかし、食事といったって、大した時間でもあるまいが、その僅の間に、あれだけの兇行を演じることが出来るだろうかね。もし君が注意していたなら、食事の前かあとかに、何か物音を聞いているはずだよ」
「ヘエ、それが一向に」
「じゃね、君が台所へ行くすぐ前か、台所から帰ったあとかに、湯の中に人のいる様な気はいはなかったかい」
「ヘエ、そういえば、台所から帰った時に、誰か入っている様でございましたよ」
「覗いて見なかったのだね」
「ヘエ」
「で、それはいつ頃だったろう、十時半頃ではないかね」
「よくは分りませんですが、十時半よりはおそくだと思います」
「どんな音がしていたの、湯を流す様な音だったの」
「ヘエ、馬鹿に湯を使っている様でございました。あんなにふんだんに湯を流すのは、うちの旦那の外にはありませんです」
「じゃその時のはここの旦那だったのかい」
「ヘエ、どうも、そうでもない様で」
「そうでもないって、それがどうして分ったの」
「咳払いの音が、どうも旦那らしくなかったので」
「じゃ、その声は君の知らない人のだったの」
「ヘエ、いいえ、何だか河野の旦那の声の様に思いましたですが」
「エ、河野って、あの二十六番の部屋の河野さんかい」
「ヘエ」
「それは君、本当かい。大事な事だよ。確に河野さんの声だったのかい」
「ヘエ、そりゃもう、確でございます」
三造は、昂然として答えました。しかし、私はこの愚ものの言葉を、俄に信用していいかどうか、判断に苦しまないではいられませんでした。初めの曖昧な調子に比べて、今の断定は少しく唐突の様に見えないでしょうか。そこで、私は更に質問をくり返して、三造の危げな記憶を確めようと試みましたが、どういう訳か、彼はその時の入浴者が河野であったことを、むやみに主張するばかりで、それについて何の確証もなく、結局私を満足させることは出来ないのでした。