二十二
私はとうとう殺人事件の渦中に巻き込まれた形でした。眼鏡の装置を取はずすまでは、予定の滞在期間など構わずに早くこのいまわしい場所を逃げ出したいと思っていたのですが、さて、その装置もなくなり、我身の心配が取のぞかれてしまうと、今度は持前の好奇心が勃然として湧き上り、河野と共に、私達だけの材料によって、犯人の捜索をやって見ようという、大それた願いをすら起すのでした。
その頃には、近くの裁判所からかかりの役人達も出張し、浴場のしみが人間の血液に相違ないことも分り、Y町の警察署ではもう大騒ぎを演じていたのですが、捜索の仕事は、その大がかりな割には、一向に進捗せず、河野の知り合いの村の巡査の話を聞いて見ても、素人の私達でさえ歯痒くなるほどでありました。その警察の無力ということが、一つは私をおだてたのです。そして、もう一つは、河野の熱心な探偵ぶりが少からず私の好奇心を刺戟したのは申すまでもありません。
私は部屋へ帰って、今風呂番三造から聞き込んだ事実について色々と考えて見ました。三造が食事から帰った時、浴場の中に何者かがいたことは間違いないらしく思われます。そして、その男が犯罪に関係のあることは、時間の点から考えて、殆ど確実であります。ところが、三造によれば、それが私と一しょに素人探偵を気取っている、あの河野であったらしいというのです。
「では、河野が人殺しの本人なのだろうか」
ふと、私はいうにいわれぬ恐怖を感じました。もし浴場にあの様に多量の血潮が流れていず、或は流れていても、それが絵の具だとか他の動物の血液だとかであったならば、河野の風変りな性質と考え合せて、彼のいたずらだとも想像出来るのでしょうが、不幸にして血痕は明かに人間の血液に相違ないことが判明し、その分量も、拭き取った痕跡から推して、被害者の生命を奪うに十分なものだということが分っているのですから、その時浴場にいたのが河野に間違いないとすると、彼こそ恐るべき犯罪者なのであります。
でも、河野は何ゆえに長吉を殺したのでしょう。又、その死体をいかに処分することが出来たのでしょう。それらの点を考えると、まさか彼が犯人だとは想像出来ません。第一先夜の怪しい人影だけでも、彼の無罪を証拠立てるに十分ではないでしょうか。それに、普通の人間だったら、殺人罪を犯した上、のめのめと現場に止まって、探偵の真似なんか出来るはずがないのです。
三造はただ咳払いの音を聞いて、それが河野であったと主張するのですが、人間の耳には随分聞き違いということもあり、まして、聞いた人が愚ものの三造ですから、これは無論何かの間違いでありましょう。しかし、その時浴場に何者かがいたことだけは、事実らしく思われます。三造は「あんなに湯を使う人はここの檀那の外にありません」といっています。では、それは河野ではなくて湖畔亭の主人だったのではありますまいか。
考えて見れば、あの影の男が落して行った財布も、その主人の持物でありました。尤も召使達が、主人の財布の紛失したことを知っていた位ですから、影の男と主人とが同一人物だと想像するのは無理でしょうけれど、三造の言葉といい、彼の一くせありげな人柄といい、そこに、何とやら疑わしい影がないでもありません。
しかし、何といっても最も怪しいのは例のトランクの紳士です。死体の処分……二つの大トランク、……そこに恐しい疑いが伏在します。では、三造の聞いた人のけはいは、河野でも、宿の主人でもなくて、やっぱりトランクの男だったのでありましょうか。
そのトランクの紳士については、警察の方でも唯一の嫌疑者として、手を尽くして調べたのですけれど、深夜湖畔亭の玄関を出てから、彼等がどの様な変装をして、どこをどう逃げたものやら、少しも分らないのです。トランクを下げた洋服男を見たものは、一人としてないのです。彼等はすでに遠くへ逃げのびたのでしょうか。それとも、まだこの山中のどこかに潜伏しているのでしょうか。先夜の怪しい人影などから想像しますと、或は潜伏している方が本当かも知れません。何かこう、えたいの知れぬ怖さです。どこかの隅に(ごく間近な所かも知れません)人殺しの極悪人がモゾモゾしているのです。