「き、きさまは、いったい、何者だッ」
気ちがいの声でどなりつける。
「あんたとは一度も会ったことはない。見ず知らずの他人だが、これはほうっておけなかった。いくら不義を働いたからといって、あんまりかわいそうですよ。まあ、助けてやることにしましょう。それについてね、あんたに相談があるんだが、このふたりに当座のこづかいと、ぼくに口止め料がいただきたい。あんたの小切手帳と実印のあるところを教えてください。ぼくが取ってきますよ」
「いやだ。きさまなどに金をやるような義理はないッ」
良斎は、まだ自由になっている両手をむやみにふりまわして、どなり返した。
「義理はないかもしれないが、そうしないと、あんたの身の破滅なんだ。わかりませんか。もし、小切手帳のありかを教えなければ、ぼくはこのまま警察へ届けますよ。そうすれば、あんたは殺人未遂罪だ。とらわれの身となるんだ。川波良斎が捕縛されたとなれば、世間は大騒ぎですよ。そして、あんたの信用はゼロになって、商売も何もできなくなる。どうです。それでもかまいませんか。それよりも、あり余る財産を少しばかり減らしたほうが得じゃありませんかね。よく考えてごらんなさい」
ふくしゅうの鬼となった気ちがい良斎でも、利害の観念は失っていなかった。しばらくだまりこんで考えていたが、
「わかった。すると、きみは今夜のことはだれにもいわないというんだね」
と、念をおした。
「もちろんですよ。小切手帳に適当な金額さえ書いてくださればね。さあ、小切手帳のありかです」
「小切手帳も実印も、書斎の金庫の中だ」
「書斎は知ってます。で、金庫の暗号は?」
「み、よ、こ、だ」
「み、よ、こ、ああ、ここに埋められているあんたの奥さんの名ですね。それほど愛していたのですね。いや、無理はない。無理はないが、これほどにすることはないでしょう。それに、このふたりを殺せば、いつかは発覚する。あんた自身が死刑にされる。そんなバカな取り引きはおよしなさい。日がたてば忘れますよ。奥さんは好きな男にやってしまいなさい。あんたの金力なら、かわりの女は思うままじゃありませんか。では、しばらく待っていてください。なわをかけさせてもらいますよ。絹糸だけでは、逃げられる心配がありますからね」
影男はどこからか一本の細引きを取り出して、良斎を厳重に木の幹にしばりつけ、両手も動かないようにしてしまった。そして、すばやくやみの中へ消えていったが、しばらくすると、いろいろな物をかかえてもどってきた。埋められているふたりの衣類、シャベル、それからポケットに小切手帳と実印と万年筆。衣類とシャベルを地上に置くと、良斎のなわを少しゆるめて、両手を自由にしてやったうえで、懐中電灯を照らしながら、小切手帳と万年筆を突きつけた。
「ぼくが代筆をしてもいいが、やっぱり、あんた自身で書くほうが安心でしょう。洗いざらいもらおうとはいいません。あんたの財産のほんの何十分の一でいいのですよ。今、金庫の中の当座預金通帳を見てきたが、五百万円あまり残ってますね。そのうちの二百万円でよろしい。このふたりに百万円、ぼくに百万円です。安いものでしょう」
良斎は小切手帳を手に取ろうともせず、だまっている。
「アハハハハハ、二百万が惜しいのですか。それとも、このふたりの命を助けたうえ、金までやるのがくやしいというのですか。だが、よく考えてごらんなさい。このふたりは生活能力がないのです。このままほうり出したら、やけになって、あんたを警察に訴えるかもしれない。その口ふさぎですよ。楽な生活ができれば、恨みも忘れようというものです。これもみんなあんた自身の安全をはかるためだ。そう思えば安いものじゃありませんか、さあ、署名をしてください。金額は二百万円です」
良斎は金もうけの達人だから、利害の打算は早かった。いわれてみれば、けっきょくそのほうが得だと考えたのであろう。しぶしぶ小切手帳を手に取ると、金額を書き入れ、署名をした。
影男は、それに捺印して、その一枚を切り取ると、実印と小切手帳と万年筆を良斎のふところにねじこみ、また細引きを厳重に縛りなおして、身動きもできないようにしたうえ、手ぬぐいを取り出して、さるぐつわまではめてしまった。
「このうち百万円は、たしかにふたりに渡します。そして、今夜のことは水に流すように申しつけます。けっしてご心配には及びません」
影男はそれからシャベルをふるって、土を掘りはじめた。そして、三十分あまりで、はだかのふたりを土の中から救い出すことができた。ふたりがからだをふいて、そこに置いてあった服を着おわり、いよいよ立ち去ろうとするとき、影男は良斎にこう言いのこした。
「じゃ、ふたりはぼくが引きうけました。どこかに住まいを見つけて、百万円を渡し、当分楽に暮らせるようにしてやります。あんたは、しばらく、そうしてがまんしていてください。あす銀行から、この二百万円を引き出したあとで、だれかをここへよこします。この者があんたのなわを解いてくれるでしょう。そのとき、どろぼうがはいって、しばられたとうそをいうのですよ。そうしないと、かえってあんたが不利になる。わかりましたね。あすの午前までのしんぼうです。じゃ、さよなら」
そして、まっくろな怪物は、篠田青年と美与子を引きつれて、やみの中をいずこともなく消えていった。