「それはわかってますよ。そのほかに用事があるはずはない。しかしね、ぼくはこのまえの底なし沼で懲りたのです。あまり残酷で、どうもあと味がわるい。それで、実はあなたがたから逃げていたのですが、こんどは、ちょっと相談に乗ってみようかなという気が起こった。ちょっと訳があってね」
影男もあいそがよかった。
「では、さっそく用件にとりかかりますがね。ある富豪から、ひとりの青年紳士をやっつけてくれと頼まれたのです。これには相当の報酬が出ます。ですから、あなたの立案料も、こんどは五百万円まで奮発しますよ。そのかわり、会社のほうへ絶対に疑いのかからないような、とびきりの名案をひとつ考えていただきたいのです」
ボートはゆらゆらと快適に揺れていた。風はなく、空は青々と晴れて、暖かい陽光がさんさんと降りそそいでいた。そのボートの中のふたりは、にこやかに笑いかわしながら、のんびりと、とりとめもない世間話でもしているように見えた。
「よろしい。取っておきの名案をさし上げましょう。それにしても、立案料が五百万とは奮発しましたね。あなたの受け取る報酬はその何倍ですか」
影男が、やっぱり笑いながら、皮肉にいった。
「どういたしまして、せいぜい二倍ですよ。こんどの件は、相手がしたたかものなので、よほど慎重にやらないとあぶないのです。だから、立案料に半分出そうというわけです」
須原はぬけぬけとうそをついた。読者も知るように、川波良斎への要求額は二千万円であった。つまり、影男を抹殺する代金が二千万円だった。なんということだ。このずぶとい小男は、これから殺そうと思っている当人に、その殺人方法を立案させようというわけなのである。
あぶない、あぶない。さすがの影男も、そこまでは気がつくまい。いくらなんでも、自分を殺そうとしているやつが、その殺し方を自分に教わりに来るとは、考えも及ばないであろう。
「あなたは今、取っておきの名案があるとおっしゃいましたね。それをひとつご伝授願いたい。さだめし、すばらしい名案でしょうな」
小男は両手をこすり合わせて、舌なめずりをした。
「ぼくの名案というのは、密室ですよ」
「え、密室?」
「探偵小説のほうで有名な、あの秘密の殺人というやつです」
「ふん、ふん、わかります。わかります。それで?」
「つまり、そのへやの内部から完全な締まりができていて、犯人の逃げ出すすきまが絶対にない。それにもかかわらず、そのへやには、被害者の死体だけが残されて、犯人の姿は見えないというやつですね。古来いろいろな犯人が、この密室の新手を考えた。百種に近い方法がある。しかし、ぼくの秘蔵しているのは、いまだかつてだれも考えたことのない新手です。五百万円では安いもんだ。しかし、教えてあげますよ。なんとなく、あんたが好きになったからだ」
「ありがとう、ありがとう。ぜひ、教えてください。恩に着ますよ」
小男の顔が、まるで好々爺のように笑みくずれた。
「それにはね、ちょうど今、ぼくはレンガ建ての書斎を建てている。これがもう二、三日でできる。それを提供しますよ。むろん、一時お貸しするだけだが、殺人の現場となっては、あとは使えない。この建築費が三百万円かかっている。これは実費として別途支出ですよ。いいでしょうね」
「三百万円! すると、合わせて八百万円のお礼ということになりますね。それはちと高い。もっと安い建物はありませんか」
「アハハハハハ、家を買う話じゃない。そのぼくの書斎でなければ、うまくいかないのです。説明すればすぐわかるんだが、まず報酬をさきにもらわなくてはね。ぼくの売り物は形のない知恵なんだから、それをさきに話してしまっては、取り引きにならない。きょうでなくてもよろしい。報酬の用意をしていただきたい」
「それはもう、ちゃんと用意しております。あなたがそういわれることは、わかっていましたのでね。しかし、こちらは五百万ときめていたのだから、それだけの小切手しかありませんが」
小男はそういいながら、内ポケットから大きな札入れを出して、一枚の小切手を抜き出した。