「これです。ぼくの振り出しじゃありません。大銀行から都内の支店あての小切手だから、まちがいのあろうはずはない。とりあえずこれだけお渡ししますから、その名案というやつを聞かせてください。残金の三百万は、実行に着手するまえに必ずお払いしますよ」
影男はその小切手を受け取って、ちょっと調べてから、内ポケットに収めた。
「よろしい。あんたを信用して、伝授することにしましょう。断わっておくが、密室というものの利点はですね、情況判断からして、どんなに疑わしい人物があっても、それを処罰することができない。密室のなぞが解けるまではどうすることもできないという点にある。だから、絶対に解くことのできない密室さえ構成すれば、それは完全犯罪になるのです。わかりましたか。しかも、ぼくの考えているやつは、犯罪史上にまったく類のない新手で、絶対に解けない密室なのです。それはね、こういう方法なのです……」
影男はそれから二十分ほど話しつづけた。
小男須原はそれを謹聴していたが、すっかり聞き終わると、はたとひざをたたいて、「ふうん、なるほど、考えましたね。いかにも斬新きばつの名トリックですよ。これなら、どんな名探偵だって、わかりっこありませんよ。ありがとう。ところで、それはいつ実行しますかな」
「もう建物はでき上がっているんです。早いほうがよろしい」
「で、そのあなたのレンガ建ての書斎はどこにあるのです」
「世田谷区のはずれの蘆花公園のそばですよ」
「一度、下検分をしておきたいものですね」
「よろしい。それでは明後日の夜八時ごろがいいな。世田谷のぼくのうちをたずねてください。そのころには、書斎の家具などもはいっているでしょう」
といって、自宅への道順を教えた。
「では、そういうことにしましょう。いや、おかげで、わしも安心しました。やっぱり、あんたの知恵袋はたいしたもんだ。そういう名案があろうとは思わなかったですよ」
須原はほめ上げながら、心中ではペロリと舌を出していた。この男は、自分が殺されるのも知らないで、完全犯罪の手段を教えてくれた。さすがの知恵者もいっぱい食ったな。おれのほうが役者が一枚上だわいと、ほくそえんでいた。
須原はすでに篠田昌吉と川波美与子を毒煙で倒して、その死体を小べやの中に塗りこめてしまっていた。このほうは首尾よく目的を果たした。残る影男は、とても手におえまいと思ったが、逆手を用いて、犠牲者自身に殺人方法の知恵を借りてみたら、その意表外の度胸がまんまと成功して、相手は少しもそれに気がつかず、うまい方法を教えてくれた。やっこさんも存外あまいもんだな。
須原は小さなからだがはちきれるほどの自信で、その日はひとまず帰ることにした。ボートを舟宿にもどして、また一杯やったあとで、明後日を約して別れた。
影男はこの小男のために、うまくしてやられたのであろうか。裏には裏のあるくせ者どうし、影男のほうにだって、どんな秘策が用意されていまいものでもない。この悪知恵比べ、最後の勝利を得るものは、両者のいずれであろうか。