大トランクの出発
さて、その夜の九時ごろのことです。同じアパートの二階に住んでいる小説家の
「明智先生、ぼく、これから、ちょっと旅行してきます。京都まで夜汽車です。二―三日で帰ります。小説の種さがしですよ。……おや、明智先生、あなた、顔色がよくないようですが、どうかなさったのですか。」
人見さんが心配そうにたずねました。明智探偵はつくえの前にこしかけたまま、がっかりしたような声で答えます。
「あなただから、うちあけますがね。じつは、やられたのです。マユミが消えてしまったのです。」
「えっ、マユミさんが? いつ? どこで?」
「
「すると、あの怪物は、ちゃんと、約束をまもったわけですね。」
「残念ながら、そのとおりです。」
「で、てがかりは?」
「なにもありません。しかたがないので、警察の手をかりることにしました。警察はけさから東京付近に、非常線をはって、あの怪人物をさがしています。しかし、おそらく急には、つかまらないでしょう。あいては魔法つかいのようなやつですからね。」
いつもにこにこしている明智が、青い顔をして、しおれかえっています。名探偵が、こんなにがっかりしたようすを見せたのは、あとにも先にも例のないことです。
「そりゃ、ご心配ですね。それにしても、明智先生、あなたは、あの怪物を、みくびりすぎましたよ。ちゃんと電話で、予告しているんですからね。すくなくとも、きょうは、昼も夜も、マユミさんのそばに、つききりにしているほうが、よかったですね。ぼくが旅行をしなければ、なにかお手つだいをしたいのですが、残念です。……小林君はどうしました。このさい、先生と小林君とで、うんと活動していただかなければなりませんからね。」
「小林も、すっかり、しょげていますよ。……小林君、ちょっと、ここへきたまえ。」
その声におうじて、むこうのドアがひらき、小林少年がはいってきました。いつも
「小林君、しっかりしたまえ。きみが明智先生を、はげましてくれなくちゃ、こまるじゃないか。」
人見さんに、そういわれても、小林君は、まだうなだれたまま、かすかに、「ええ。」と答えるばかりでした。
そこへ、廊下のほうのドアをノックして、アパートの玄関番のじいさんが、顔をだしました。
「人見さん、お呼びになった運転手がきました。お荷物はどこですか。」
「ああ、そうか、いまいくよ。……明智先生、どうか元気をだして、がんばってください。ではいってきます。」
人見さんは、かるくおじぎをして、廊下のほうへ出ていきます。明智探偵と小林少年は、ドアのところまで、それを見おくりました。
ふたりが、ひらいたままのドアの中に立って、見ていますと、人見さんの部屋から、人見さんと自動車の運転手が、大きなトランクを、ふたりがかりで、エッチラ、オッチラと、はこびだしてきました。重そうなトランクです。
二―三日の旅行に、そんな重いトランクがいりようなのでしょうか。明智探偵も、小林少年も、それを、うたがわねばならぬはずでした。ところが、ふしぎなことに、ふたりとも、ぼんやりした顔で、だまって、それを見おくっているのです。
人見さんと運転手は、トランクをはこんで、エレベーターの中へはいりました。そして、そのエレベーターがおりていってしまうと、明智探偵と小林少年は、ドアをしめて、部屋にもどり、立ったまま向かいあって、顔を見あわせたのです。
ふしぎなことがおこりました。ふたりの顔から、あの心配そうなかげが、スーッと消えていって、にこやかな顔になったのです。そして、ふたりは、おかしくてたまらないように、笑いだしたではありませんか。
「ウフフフ……きみの変装はよくできたね。さっきのように、うなだれていれば、だれだって、小林君だと思うよ。」
明智探偵がいいますと、小林少年とそっくりのあいてが、女の声で答えました。
「わたし、顔をあげちゃいけないと思って、ずいぶん、がまんしましたわ。でも、うまく、あの人を、だませましたわね。」
「あの先生、トランクの中に、きみのかわりに小林君がはいっているとも知らず、とくいになって運んでいったね。いまにびっくりしても、おっつかないようなことがおこるよ。」
「でも、先生、小林さん、だいじょうぶでしょうか。わたし、なんだか心配ですわ。」
小林少年に変装したマユミさんが、まじめな顔になっていいました。
「小林君は、いままでに、こういう冒険は、いくどもやっている。いざとなると、ぼくでもかなわないほど、頭のはたらく少年だからね。だいじょうぶ、怪物のすみかをたしかめて逃げだしてくるよ。……人見は怪物から電話がかかってきたとき、ぼくの目の前にいたのだから、かれは怪物の手下にすぎないのかもしれぬ。だから、うっかり、あいつをつかまえると、かんじんの怪物を逃がしてしまう心配がある。それできみがトランクにいれられたのをさいわいに、小林君に身がわりをつとめさせたのだよ。こうして、怪物のすみかを、さぐってしまえば、あとは警察の力で、ひとりのこらず、とらえることができるからね。」
明智探偵は、さいしょから人見という小説家を、うたがっていました。それで、小林少年に、そっと見はりをさせておくと、マユミさんが、トランクにいれられたことがわかりましたので、小林少年を身がわりにする計画をたてたのです。
小林君は、夕がた女の服をきて、マユミさんとそっくりの姿に、変装して三階のあき部屋にしのびこみ、針金をまげた道具で、トランクの
そして、かわりに、じぶんがトランクの中へはいり、マユミさんに、外から、さっきの道具で、錠をおろさせたのです。トランクには、いきがつまらないように、ほうぼうに、小さな穴があけてあるので、いくら長くはいっていても、命にべつじょうはありません。
その夕がた、トランクにいれられたはずのマユミさんが、三階の部屋を出て、明智探偵の部屋にもどったのは、そういうわけだったのです。
しかし、トランクづめになった小林君は、これから、どうなるでしょう? いくら冒険になれているといっても、あいてが、あの恐ろしい妖人ゴングです。もしや、いままでに、一度も出あったことのないような恐ろしいめに、あわされるのではないでしょうか。
新聞は、この怪物に、「妖人ゴング」という名をつけていました。ゴングというのはドラのことです。あのウワン、ウワン、ウワンという声が、まるでドラを、ゴン、ゴンとたたくように聞こえるので、だれいうとなく、妖人ゴングという、怪物にふさわしい名がついたのでした。