九
私は幾晩も幾晩もそのことばかり考え続けた。静子の魅力もこの奇怪なる疑いには及ばなかったのか、私は不思議にも静子のことを忘れてしまったかの如く、ひたすら奇妙な妄想の深味へ陥って行った。私はその間にも、あることを確める為に二度ばかり静子を訪ねは訪ねたのだけれど、用事をすませると、至極あっさりと別れをつげて、大急ぎで帰ってしまうので、彼女はきっと妙に思っていたに相違ない。私を玄関に見送る彼女の顔が、淋しく悲しげにさえ見えた程だ。
そして、五日ばかりの間に、私は実に途方もない妄想を組立ててしまったのである。私はそれをここに叙述する煩を避けて、その時糸崎検事に送る為に書いた私の意見書が残っているから、それにいくらか書入れをして、左に写して置くことにするが、この推理は、私達探偵小説家の空想力を以てでなければ、恐らく組立て得ない体のものであった。そして、そこに一つの深い意味が存在していたことが、のちになって分って来たのだが。
(前略)そういう訳で、私は、小山田邸の静子の居間の天井裏で拾った金具が、小山田六郎氏の手袋のホックから脱落したものと考える外はないことを知りますと、今迄私の心の隅の蟠りとなっていた色々の事実が、この私の発見を裏書きでもする様に、続々思い出されて来るのでありました。六郎氏の死体が鬘を冠っていたこと。その鬘は六郎氏自身註文して拵らえさせたものであったこと。(死体がはだかであったことは、後に述べます様な理由で、私にはさして問題ではありませんでした)六郎氏の変死と同時に、まるで申合せた様に、平田の脅迫状がパッタリ来なくなったこと、六郎氏が見かけによらぬ(こうしたことは多くの場合見かけによらぬものです)恐ろしい惨虐色情者(サジスト)であったこと等、これらの事実は、偶然様々の異常が集合したかに見えますけれど、よくよく考えますと、悉くある一つの事柄を指示していることが分るのであります。
私はそこへ気がつきますと、私の推理を一層確実にする為、出来る丈けの材料を集めることに着手しました。私は先ず小山田家を訪ね、夫人の許しを得て、故六郎氏の書斎を調べさせて貰いました。書斎程、その主人公の性格なり秘密なりを如実に語って呉れるものはないのですから。私は夫人が怪しまれるのも構わず、殆ど半日がかりで、書棚という書棚、抽斗という抽斗を調べ廻ったことですが、間もなく私は、数ある本棚の中に、たった一つ丈け、さも厳重に鍵のかかっている箇所のあるのを発見しました。鍵を尋ねますと、それは六郎氏が生前時計の鎖につけて、始終持歩いていたこと、変死の日にも兵児帯に巻きつけて家を出たままだということが分りました。仕方がないので、私は夫人を説いて、やっとその本棚の戸を破壊する許しを得ました。
開けて見ますと、その中には、六郎氏の数年間の日記帳、幾つかの袋に入った書類、手紙の束、書籍などが一杯入っていましたが、私はそれを一々丹念に調べた結果、この事件に関係ある三冊の書冊を発見したのであります。第一は六郎氏と静子夫人との結婚の年の日記帳で、婚礼の三日前の日記の欄外に、赤インキで、次の様な注意すべき文句が記入してあったのです。
「(前略)余は平田一郎なる青年と静子との関係を知れり。されど、静子は中途その青年を嫌い始め、彼が如何なる手段を講ずるも其意に応ぜず、遂には、父の破産を好機として彼の前より姿を隠せる由なり。それにてよし。余は既往の詮議立てはせぬ積りなり云々」つまり六郎氏は結婚の当初から、何等かの事情により、夫人の秘密を知悉していたのです。そして、それを夫人には一言も云わなかったのです。
第二は大江春泥著短篇集「屋根裏の遊戯」であります。かかる書物を、実業家小山田六郎氏の書斎に発見するとは、何という驚きでありましょう。静子夫人から、六郎氏が生前仲々の小説好きであったということを聞くまでは、私は私の目を疑った程でした。さて、この短篇集の巻頭にはコロタイプ版の春泥の肖像が掲げられ、奥附には著者平田一郎と彼の本名が印刷されてあったことは、注意すべきであります。
第三は博文館発行の雑誌「新青年」第六巻第十二号です。これには春泥の作品は掲載されていませんでしたけれど、その代り、口絵に彼の原稿の写真版が原寸のまま原稿紙半枚分程、大きく出ていて、余白に「大江春泥氏の筆蹟」と説明がついていました。妙なことは、その写真版を光線に当ててよく見ますと、厚いアートペーパの上に、縦横に爪の跡の様なものがついているのです。これは誰かが写真の上に薄い紙を当てて、鉛筆で春泥の筆蹟を、幾度もなすったものとしか考えられません。私の想像が次々と適中して行くのが怖い様でした。
其同じ日、私は夫人に頼んで、六郎氏が外国から持帰った手袋を探して貰いました。それは探すのに可なり手間取ったのですけれど、遂に私が運転手から買取ったものと、寸分違わぬ品が一揃丈け出て来ました。夫人はそれを私に渡した時、確かに同じ手袋がもう一揃あった筈なのにと、不審顔でした。これらの証拠品、日記帳、短篇集、雑誌、手袋、天井裏で拾った金具等は、御指図によって、いつでも提出することが出来ます。
さて、私の調べ上げた事実は、この外にも数々あるのですが、それらを説明する前に、仮りに上述の諸点丈けによって考えましても、小山田六郎氏が世にも不気味な性格の所有者であり、温厚篤実なる仮面の下に、甚だ妖怪じみた陰謀をたくましくしていたことは明かであります。
我々は大江春泥という名前に執着し過ぎていはしなかったでしょうか。彼の血みどろな作品、彼の異様な日常生活の知識などが、我々をして、この様な犯罪は春泥でなくては出来るものでないと、てんから独り極めに極めさせてしまったのではありますまいか。彼はどうして、かくも完全に姿をくらまして了うことが出来たのでしょう。彼が犯人であったとしては、少し妙ではありませんか。彼が無実であればこそ、単に彼の持前の厭人癖から(彼が有名になればなる程、その名に対しても、この種の厭人病は極度に昂進するものであります)世間を韜晦したのであればこそ、この様に探しにくいのではないでしょうか。彼は嘗つてあなたがおっしゃった様に、海外に逃出してしまったのかも知れません。そして、例えば上海の支那人町の片隅に、支那人になりすまして水煙草でも吸っているのかも知れません。そうでなくて、若し春泥が犯人であったとすれば、あの様にも綿密に、執拗に、長年月を費して企らまれた復讐計画が、彼にしては道草の様なものであった六郎氏殺害のみを以て、肝腎の目的を忘れた様に、パッタリと中絶されたことを、何と説明したらいいのでしょう。彼の小説を読み、彼の日常を知っているものには、これは余りに不自然な、あり相もないことに思われるのです。
いやそれよりも、もっと明白な事実があります。彼はどうして、小山田六郎氏所有の手袋の釦を、あの天井へ落して来ることが出来たのでしょう。手袋が内地では手に入らぬ外国製のものであること、六郎氏が運転手に与えた手袋の飾釦がとれていたことなど思合せば、かの屋根裏に潜んでいた者は、当の小山田六郎氏ではなく、大江春泥であったと、そんな不合理な事が考えられるでしょうか。(ではそれが六郎氏であったとしたら、彼はなぜその大切な証拠品を、迂濶にも運転手などに与えたかとの御反問があるかも知れません。併し、それは後に述べます様に、彼は別段法律上の罪悪を犯してなどいなかったからです。変態好みの一種の遊戯をやっていたに過ぎなかったからです。ですから、手袋の釦がとれた所で、仮令それが天井に残されていた所で、彼にとっては何でもなかったのです。犯罪者の様に、この釦の取れたのは、若しや天井裏を歩いていた時ではなかったかしら。それが証拠になりはしないかしら。などと心配する必要は少しもなかったのです)
春泥の犯罪を否定すべき材料は、まだそればかりではありません。右に述べた日記帳、春泥の短篇集、新青年等の証拠品が、六郎氏の書斎の錠前つき本棚にあったこと、その錠前の鍵は一つしかなく、六郎氏が行住坐臥所持していたことは、それらの品が六郎氏の陰険な悪戯を証拠立てているというばかりではなく、一歩譲って、春泥が六郎氏に疑をかける為に、その品々を偽造し六郎氏の本棚へ入れて置いたと考えることさえ、全然不可能なのです。第一日記帳の偽造なぞ出来るものではありませんし、その本棚は六郎氏でなければ開けることも閉めることも出来なかったではありませんか。
かく検して来ますと、我々が今迄犯人と信じ切っていた大江春泥こと平田一郎は、意外にも、最初からこの事件に存在しなかったと考える外はありません。我々をして左様に信じさせたものは、小山田六郎氏の驚嘆すべき偽瞞であったとしか考えられないのであります。金満紳士小山田氏が、かくの如き綿密陰険なる稚気の所有者であったことは、彼が表に温厚篤実を装いながら、その寝室に於ては、世にも恐るべき悪魔と形相を変じ、可憐なる静子夫人を外国製乗馬鞭を以て、打擲し続けていたことと共に、我々の誠に意外とする所でありますけれど、温厚なる君子と、陰険なる悪魔とが、一人物の心中に同居したためしは、世にその例が乏しくないのであります。人は、彼が温厚でありお人好しであればある程、却って悪魔に弟子入りし易いとも云えるのでありますまいか。
さて、私は斯様に考えるのであります。小山田六郎氏は今より約四年以前、社用を帯びて欧洲に旅行をし、ロンドンを主として、其他二三の都市に二年間滞在していたのですが、彼の悪癖は、恐らくそれらの都市の何れかに於て芽生え、発育したものでありましょう。(私は碌々商会の社員から、彼のロンドンでの情事の噂を洩れ聞いて居ります)そして、一昨年九月、帰朝と共に、彼の治し難い悪癖は彼の溺愛する静子夫人を対象として、猛威をたくましくし始めたものでありましょう。私は昨年十月、静子夫人と初対面の折、已に彼女の項にかの無気味な傷痕を認めた程ですから。
この種の悪癖は、例えばかのモルヒネ中毒の様に、一度染んだなら一生涯止められないばかりでなく、日と共に月と共に恐ろしい勢いでその病勢が昂進して行くものであります。より強烈なより新しい刺戟をと、追い求めるものであります。今日は昨日のやり方では満足出来ず、明日は又今日の仕草では物足りなく思われて来るのです。小山田氏も同様に、静子夫人を打擲するばかりでは満足が出来なくなって来たことは、容易に想像出来るではありませんか。そこで、彼は物狂わしく新しい刺戟を探し求めなければならなかったでありましょう。
丁度その時、彼は何かのきっかけで、大江春泥作「屋根裏の遊戯」という小説のあることを知り、その奇怪なる内容を聞いて、一読して見る気になったのかも知れません。兎も角、彼はそこに、不思議な知己を発見したのです。異様な同病者を見つけ出したのです。彼が如何に春泥の短篇集を愛読したか、その本の手摺れのあとでも想像することが出来るではありませんか。春泥はあの短篇集の中で、たった一人でいる人を(殊に女を)少しも気づかれぬ様に隙見することの、世にも不思議な楽しさを、繰返し説いていますが、六郎氏がこの彼にとっては恐らく新発見であった所の、新しい趣味に共鳴したことは想像に難くありません。彼は遂に春泥の小説の主人公を真似て、自から屋根裏の遊戯者となり、自宅の天井裏に忍んで静子夫人の独居を隙見しようと企てたのであります。
小山田家は門から玄関まで、相当の距離がありますので、外出から帰った折など、召使達に知れぬ様、玄関脇の物置に忍込み、そこから天井伝いに、静子の居間の上に達するのは、誠に雑作もないことです。私は、六郎氏が夕刻から、よく小梅の友達の所へ碁を囲みに出かけたのは、この屋根裏の遊戯の時間をごまかす手段ではなかったか、とさえ邪推するのであります。
一方、その様に「屋根裏の遊戯」を愛読していた六郎氏が、その奥附の作者の本名を発見し、それが嘗つて静子にそむかれた彼女の恋人であり、彼女に深い恨みを抱いているに相違ない平田一郎と同一人物ではないかと疑い始めたのは、さもあり相なことではありませんか。そこで、彼は大江春泥に関する、あらゆる記事、ゴシップを猟り、遂に春泥が嘗つての静子の恋人と同一人物であったこと、又彼の日常生活が甚だしく厭人的であり、当時、已に筆を絶って行方をさえくらましていたことを、知悉するに至ったのでありましょう。つまり、六郎氏は、一冊の「屋根裏の遊戯」によって、一方では彼の病癖のこよなき知己を、一方では彼にとっては憎むべき昔の恋の仇敵を、同時に発見したのです。そして、その知識に基いて、実に驚くべき悪戯を思いついたのであります。
静子の独居の隙見は成程甚だ彼の好奇心をそそったには相違ないのですが、惨虐色情者の彼が、それ丈けで、そんな生ぬるい興味丈けで、満足しよう筈はありません。鞭の打擲に代るべき、もっと新しい、もっと残酷な何かの方法がないものかと、彼は病人の異常に鋭い空想力を働かせたものでしょう。そして、結局平田一郎の脅迫状という誠に前例のないお芝居を思いつくに至ったのであります。それには、彼は已に「新青年」第六巻十二号巻頭の写真版の御手本を手に入れて居りました。お芝居をいやが上にも興深く、誠しやかにする為に、彼は、その写真版によって丹念にも春泥の筆蹟の手習いを始めました。あの写真版の鉛筆の跡がそれを物語って居ります。
六郎氏は平田一郎の脅迫状を作製すると、適当な日数を置いて、一度一度違った郵便局からその封書を送りました。商用で車を走らせている途中、もよりのポストへそれを投込ませるのは訳のないことでした。脅迫状の内容については、彼は新聞雑誌の記事によって春泥の経歴の大体に通じていましたし、静子の細い動作も、天井からの隙見と、それで足らぬ所は、彼自身静子の夫であったのですから、あの位のことは訳もなく書けたのです。つまり彼は、静子と枕を並べて、寝物語りをしながら、その時の静子の言葉や仕草を記憶して置いて、それをさも春泥が隙見したかの如く書き記した訳なのです。何という悪魔でありましょう。かくして彼は、人の名を騙って脅迫状を認め、それを自分の妻に送るという犯罪めいた興味と、妻がそれを読んで震え戦く様を天井裏から胸を轟かせながら隙見するという悪魔の喜びとを、合せ得ることが出来たのです。しかも、彼はその間々には、やはりかの鞭の打擲を続けていたと信ずべき理由があります。何故と云って、静子の項の傷は、六郎氏の死後になって、やっとその痕が見えなくなったのですから。云うまでもなく、彼はこの様に妻の静子を責めさいなんではいましたけれど、それは決して彼女を憎むが故ではなく、寧ろ静子を溺愛すればこそ、この惨虐を行ったのであります。この種の変態性慾者の心理は無論あなたも充分御承知のこととは思いますけれど。
さて、かの脅迫状の作製者が小山田六郎氏であったという、私の推理は以上で尽きましたが、では、単に変態性慾者の悪戯に過ぎなかったものが、どうしてあの様な殺人事件となって現れたか。しかも殺されたものは当の六郎氏であったばかりでなく、彼は何故にあの奇妙な鬘を冠り、真裸体になって、吾妻橋下に漂っていたのであるか。彼の背中の突傷は何者の仕業であったのか。大江春泥がこの事件に存在しなかったとすれば、では外に別の犯罪者があったのであるか、等々の疑問が続出して来るでありましょう。それについて、私は更らに、私の観察と推理とを申述べねばなりません。
簡単に申せば、小山田六郎氏は、彼の余りにも悪魔的な所業が、神の怒りに触れたのでもありましょうか、天罰を被ったのであります。そこには何等の犯罪も下手人もなくて、ただ六郎氏の過失死があったばかりであります。では、背中の致命傷はとの御尋ねがありましょう。けれど、その説明はあとに廻して、先ず順序を追って、私がその様な考えを抱くに至った筋路から御話しなければなりません。
私の推理の出発点は、外ならぬ彼の鬘でありました。あなたは多分、三月十七日私が天井裏の探険をした翌日から、静子は隙見をされぬ様、洋館の二階へ寝室を移したことを御記憶でありましょう。それには静子がどれ程巧みに夫を説いたか、六郎氏がどうしてその意見に従う気になったかは明瞭でありませんけれど、兎も角、その日から六郎氏は天井の隙見が出来なくなってしまったのです。併し、想像をたくましくするならば、六郎氏は其頃は、もう天井の隙見にもやや飽きが来ていたのかも知れません。そして、寝室が洋館に代ったのを幸いに、又別の悪戯を考案しなかったとは云えません。何故と云って、ここに鬘があります。彼自身注文した所のふさふさとした鬘があります。彼がその鬘を注文したのは昨年末ですから、無論最初からそのつもりではなく、別に用途があったのでしょうが、それが今、計らずも間に合ったのです。
彼は「屋根裏の遊戯」の口絵で、春泥の写真を見て居ります。その写真は春泥の若い時分のものだと云われている程ですから、無論六郎氏の様に禿頭ではなく、ふさふさとした黒髪があります。ですから、若し六郎氏が手紙や屋根裏の蔭に隠れて静子を怖がらせることから、一歩を進め、彼自身大江春泥に化け、静子がそこにいるのを見すまして、洋館の窓の外からチラリと顔を見せて、ある不思議な快感を味おうと企らんだならば、彼は何よりも先ず、彼の第一の目印である禿頭を隠す必要に迫られたに相違ありませんが、丁度それには持って来いの鬘があったのです。鬘さえ冠れば、顔などは、暗いガラスの外ではあり、チラッと見せる丈けでよいのですから(そして、その方が一層効果的なのです)恐怖に戦いている静子に見破られる心配はありません。
あの夜(三月十九日)六郎氏は小梅の碁友達の所から帰り、まだ門が開いていたので、召使達に知れぬ様、ソッと庭を廻って洋館の階下の書斎に入り(これは静子から聞いたのですが、彼はそこの鍵を例の本棚の鍵と一緒に鎖に下げて持っていたのです)其時はもう階上の寝室に入っていた静子に悟られぬ様、闇の中で例の鬘を冠り、外に出て、立木を伝って洋館の軒蛇腹に上り、寝室の窓の外へ廻って行って、そこのブラインドの隙間から、ソッと中を覗いたのであります。のちに静子が窓の外に人の顔が見えたと私に語ったのは、この時のことであったのです。
さて、それでは、六郎氏がどうして、死ぬ様なことになったか、それを語る前に、私は一応、私が六郎氏を疑い出してから二度目に小山田家を訪ね、洋館の問題の窓から、外を覗いて見た時の観察を申述べねばなりません。これはあなた自身行って御覧なされば分ることですから、くだくだしい描写は省くことに致しますが、その窓は隅田川に面していて、外は殆ど軒下程の空地もなく、すぐ例の表側と同じコンクリート塀に囲まれ、塀は直ちに余程高い石崖に続いています。地面を倹約する為に、塀は石崖のはずれに立ててあるのです。水面から塀の上部までは約二間、塀の上部から二階の窓までは一間程あります。そこで、六郎氏が軒蛇腹(それは巾が非常に細いのです)から足を踏みはずして転落したとしますと、余程運がよくて、塀の内側へ(そこは人一人やっと通れる位の細い空地です)落ちることも不可能ではありませんが、そうでなければ、一度塀の上部にぶっつかって、そのまま、外の大川へ墜落する外はないのです。そして、六郎氏の場合は無論後者だったのであります。
私は最初、隅田川の流れというものに思い当った時から、死体が投込まれた現場に止っていたと考えるよりは、上流から漂って来たと解釈する方が、より自然だとは気づいていました。そして、小山田家の洋館の外はすぐ隅田川であり、そこは吾妻橋よりも上流に当ることをも知っていました。それ故、若しかしたら、六郎氏がそこの窓から落ちたのではないかと、考えたことは考えたのですが、彼の死因が水死ではなくて、背中の突傷だったものですから、私は長い間迷わなければなりませんでした。
ところが、ある日、私はふと甞つて読んだ南波杢三郎氏著「最新犯罪捜査法」の中にあった、この事件と似よりの一つの実例を思出したのです。同書は私が探偵小説を考える際、よく参考にしますので、中の記事も覚えていた訳ですが、その実例というのは次の通りであります。
「大正六年五月中旬頃、滋賀県大津市太湖汽船会社防波堤附近ニ男ノ水死体漂着セルコトアリ。死体頭部ニハ鋭器ヲ以テシタルカ如キ切創アリ。検案ノ医師カ右ハ生前ノ切傷ニシテ死因ヲ為シ、尚腹部ニ多少ノ水ヲ蔵セルハ、殺害ト同時ニ水中ニ投棄セラレタルモノナル旨ヲ断定セルニ依リ、茲ニ大事件トシテ俄ニ捜査官ノ活動ハ始マレリ。被害者ノ身元ヲ知ランカ為メニアラユル方法ハ尽クサレ遂ニ端緒ヲ得サリシ処、数日ヲ経テ、京都市上京区浄福寺通金箔業斎藤方ヨリ同人方雇人小林茂三(二三)ノ家出保護願ノ郵書ヲ受理シタル大津警察署ニ於テハ、偶々其人相着衣ト本件被害者ノ夫ト符合スル点アルヲ以テ、直ニ斎藤某ニ通知シ死体ヲ一見セシメタルニ全ク其雇人ナルコト判明シタルノミナラス、他殺ニ非スシテ実ハ自殺ナル事ヲモ確定セラレヌ。何トナレハ水死者ハ主家ノ金円ヲ多ク費消シ遺書ヲ残シテ家出セルモノナリシヲ知レハ也。同人カ頭部ニ切傷ヲ蒙リ居タルハ、航行中ノ汽船ノ船尾ヨリ湖上ニ投身セル際、廻転セル汽船ノスクリウニ触レ、切創様ノ損傷ヲ受ケタルモノナル事明白トナレリ」
若し私がこの実例を思出さなかったら、私はあの様な突飛な考えを起さなかったかも知れません。併し多くの場合、事実は小説家の空想以上なのです。そして、甚だあり相もない頓狂な事が、実際には易々と行われているのです。と云っても私は何も六郎氏がスクリュウに傷つけられたと考えるものではありません。この場合は右の実例とは少々違って、死体は全く水を呑んでいなかったのですし、それに夜中の一時頃、隅田川を汽船が通ることは滅多にないのですから。
では、六郎氏の背中の肺部に達する程もひどい突傷は何によって生じたか、あんなにも刃物と似た傷をつけ得るものは一体何であったか。それは外でもない、小山田家のコンクリート塀の上部に植えつけてあった、ビール壜の破片なのです。それは表門の方も同様に植えつけてありますから、あなたも多分御覧なすったことがありましょう。あの盗賊よけのガラス片は所々に飛んでもない大きな奴がありますから、場合に依っては、充分肺部に達する程の突傷を拵えることが出来ます。六郎氏は軒蛇腹から転落した勢いで、それにぶっつかったのです。ひどい傷を受けたのも無理はありません。尚この解釈によれば、あの致命傷の周囲の沢山の浅い突傷の説明もつく訳であります。
かようにして、六郎氏は自業自得、彼のあくどい病癖の為に、軒蛇腹から足を踏みはずし、塀にぶっつかって、致命傷を受け、その上隅田川に墜落し、流れと共に吾妻橋汽船発着所の便所の下へ漂いつき、とんだ死に恥をさらした訳であります。以上で本件に関する私の新解釈を大体陳述しました。一二申残したことを附加えますと、六郎氏の死体がどうして裸体にされていたかという疑問については、吾妻橋界隈は浮浪者、乞食、前科者の巣窟であって、溺死体が高価な衣類を着用していたなら(六郎氏はあの夜大島の袷に鹽瀬の羽織を重ね、白金の懐中時計を所持して居りました)深夜人なきを見て、それをはぎ取る位の無謀者は、ごろごろしていると申せば充分でありましょう。(註、この私の想像は、後に事実となって現れ、一人の浮浪人があげられたのだ)それから、静子が寝室にいて、何故六郎氏の墜落した物音を気づかなんだかという点は、その時彼女が極度の恐怖に、気も顛動していたこと、コンクリート作りの洋館のガラス窓が密閉されていたこと、窓から水面までの距離が非常に遠いこと、又仮令水音が聞えたとしても、隅田川は時々徹夜の泥舟などが通るので、その水棹の音と混同されたかも知れないこと、などを御一考願い度いと存じます。尚お、注意すべきは、この事件が毫も犯罪的の意味を含まず、不幸変死事件を誘発したとは云え、全く悪戯の範囲を出でなかったという点であります。若しそうでなかったならば、六郎氏が証拠品の手袋を運転手に与えたり、本名を告げて鬘を注文したり、錠前つきとは申せ自宅の本棚に大切な証拠物を入れて置いたりした、馬鹿馬鹿しい不注意を何と説明のしようもないからであります。(後略)
以上私は余りに長々と私の意見書を写し取ったが、これをここに挿入したのは、予め右の私の推理を明かにして置かぬ時は、これから後の私の記事が、甚だ難解なものになるからである。私はこの意見書で、大江春泥は最初から存在しなかったと云った。だが、事実は果してそうであったかどうか。若しそうだとすれば私がこの記録の前段に於て、あんなにも詳しく彼の人となりを説明したことが、全く無意味になってしまうのだが。