門が開いて、足音がしたので、吾平は主人の島田又左衛門が帰宅したのかと思い、玄関に出て見ると、立っていたのはひとりの青年であった。
「吾平か。しばらくだな」
「これは新之助さま」
島田新之助といって又左衛門の甥である。死んだ又左衛門の兄の子で、惣領は二百五十石で小普請《こぶしん》組、新之助は次男で部屋住みであった。二十三歳といえば立派に一人前だが、思うような養子口も無く、ぶらぶらしていた。
微禄の旗本では分家も出来ない。二百石より下はお目見得以下で御家人《ごけにん》という。だから二百五十石では旗本でも最下位の方で、御家人とすれすれであった。その次男だからどうにもしようがなかった。
「珍しくお越しになりました」
吾平はお辞儀をした。
「お前も達者だな」
「いえ、年齢《とし》を取りました」
「そういえば、この前より皺が二本ほどふえている」
「新之助さまは相変らずでございますな」
と吾平が笑った。
「これは居るか?」
新之助は親指を一本立てた。
「あいにくとご他出でございます。半刻ほど前でございましたが」
「やれやれ、折角来たのに、居らぬとはのう。居ると叱言《こごと》をいうし、居らぬと淋しい。叔父貴もまだ若いくせに、どうも年寄り臭くていけねえ。あれで、嫁をとらぬとは、どういうことじゃ」
「それは手前どもには……」
「分らぬかのう。床下の草一本も知っているお前が叔父貴の七不思議が解けぬか?」
「七不思議と仰言いますと?」
「はて、融通の利かぬ奴だ。七は語呂じゃ。いちいち咎めるな。そのうち、お前がこの家の古い飼い猫みてえに化物じみてくると、七不思議の一つになる」
「まことに、手前も永く奉公いたしました。今年で二十年になります」
「律義な奴だ。今どき珍しい男だな。今に叔父貴に花が咲いて、老中にでもなれば、若年寄にでも取り立てて貰うさ」
「旦那様に花が咲くときが参りましょうか?」
「これ、眼の色変えて訊くな。あの性分では、まず、駄目だな」
「左様でございましょうか。お気の毒でございます。無類に立派な方でございますが」
「いくら立派に見えても喧嘩早くて損な性分だ。喧嘩早いのはこちとらもご多分にもれねえが、相手を見ることだ。強そうな奴なら除けて逃げるんだな。叔父貴のように、強いのばかり相手に吠えるのは当節じゃねえ。長いものにはおとなしく捲かれることだ。──ところで、吾平、酒があるか?」
酒が出たので、新之助はあぐらをかいた。
「うまい。この家で気に入ったのは酒だけだ。これは滅多に口に入らぬぞ」
逞しい筋骨だが、頬から顎にかけて邪気の無い線がのこっている。
吾平が横からそれを眺めた。
「新之助さま、今はどちらにお住いでございますか?」
新之助は疾《と》うに兄の家を出ている。当主の兄は誠一郎といって律義な男だ。弟がそれを煙たがって兄の家を出ていることは吾平も知っていた。
「住居というほど大そうなものではない。そうだ。友達の家だ」
その友達という素姓も吾平には察しがついた。又左衛門が日ごろからこぼすところを聞くと、どうやら市井《しせい》の無頼の徒と交っているようである。どこに居るのか、自分の口からはっきり云ったことがない。こうして思い出したように訪ねて来るのである。
(あれで、兄よりは出来のいい男だと思っていたが、案外なことになった)
と又左衛門はよく述懐した。
(世の中がいけないのだ。こう人間ばかりふえて、世知辛さがひどくなっては、まともな人間も狂ってくる。早い話が、お城の中まで狂人ばかりだからな。しかし、新之助は存外、あれでまた見どころはある)
会えば、叱言《こごと》を云うが、陰では又左衛門は新之助をひいきにしていた。叔父と甥といっても、年齢にひどい開きがないから、知らぬ人は兄弟のように思う。
「ときに、叔父貴は何処に行ったのだ?」
新之助は雫《しずく》のついた唇を掌で横に拭った。これは武士の作法に無いことだから吾平は眉をよせた。そういえば、新之助の服装からして崩れが目立っている。
「旦那様はお縫さまと……」
吾平は云いかけて気づいたように、
「そうそう、今日はお珍しいお方ばかりお見えになります。お縫さまが午《ひる》まえからお越しになりましてな」
「なに、お縫さんが?」
つと顔を上げて吾平を見た眼には、一瞬に複雑な色が動いた。
「そうか、お縫さんが来ていたのか」
と眼はまた盃に落して、
「お城から下《さが》ったのかな?」
「はい、お宿下りだということでございます」
「そうか、……まあ、おれにばかり飲ませずにお前も飲め」
「いえ、手前は……」
「下戸だったな。お前はどこまでも不自由に出来ている。……ところで、吾平、叔父貴とお縫さんは何処に行ったのだな?」
「はい。何でも築地の脇坂様のお下屋敷ということでございましたが、尤も、これは内聞でございます」
「なに、脇坂の邸に!」
又左衛門が縫をつれて脇坂の下屋敷に行ったと聞いて、新之助は濃い眉を少しひそめた。
「叔父貴はお縫さんを、いよいよ道づれにする気かな」
これはひとり言のような呟きだったが、手酌で一口飲むと、
「吾平。お縫さんはお城で手柄をたてたそうだな」
「よくは存じませんが、旦那様のお口からそのようにちょっと承ったことがございます」
「危い人だ」
「え。お縫さまがでございますか?」
「叔父貴のことだ。あの気性だから云っても直らぬがの。踊らされているお縫さんが気の毒だ。おとなしいが、一途な女《ひと》だからな」
「何のお話か存じませぬが」
と吾平は抗議した。
「旦那様は立派なお方でございますから、まさか……」
「違いない、聞いたばかりだった」
新之助は苦笑した。
「その立派なだけに余計に厄介なのだ。吾平、世の中には立派なことが欠点《あら》になることもあるのだ。まあ、おれくらいが頃合の湯加減かもしれぬな」
「いえ、新之助さまもお立派でございますよ。お怒《おこ》りになっちゃ困りますが、手前は新之助さまのご気性が好きでございます」
「べら棒め。ほめられて怒る奴がいるか。お前のような皺爺《しわじじい》からほめられても、うれしいものだ。これが白粉で皺をかくした年増女房なら、ぞっとするがな」
吾平は新之助の横顔をのぞくように見た。
「新之助さま。やはり今も、どこかの姐さんとご一緒でございますか?」
「急に風向きが変ったぜ。お前の話は生酔《なまよ》いの足みてえに決りがなくていけねえ。まあ、そうおれのことをほじくるな」
「旦那様がご心配なすってこぼしていらっしゃいますよ」
「そうか」
と盃を伏せると、
「まあ、よろしく云ってくれ」
「おや、もうお帰りでございますか?」
「叔父貴に会おうと思ったが、お前の話を聞いていると、会わずに帰りたくなった」
「お気に障ったのなら、申し訳ございませんが、もう少しお待ち遊ばしたらどうでごさいます? 折角、お縫さまも見えていることでございますから」
「いや」
と、もう起ち上っていた。
「又のことにしよう。お縫さんにも永く会わないが、よろしく云ってくれ。あ、そうだ。叔父貴に引っぱられて、あまり無理をせぬように気をつけてくれ、と、これだけ伝えてくれ」
新之助が又左衛門の屋敷の外に出たときは陽が傾きかけて、塀が長い影をつくっていた。
その影の中にかくれるようにして、二人の男が立っていたが、新之助を見るとはっとしたように、更に塀の際に身を寄せた。
一人は短い羽織の着流しで、細身の大小を差し、紺足袋に雪駄をはいている。武士でこういう服装《なり》をしているのは八丁堀の与力以外にはない。すると、その横に寄り添うようにしている縞《しま》の羽織の男は、眼つきの鋭いところといい、身のこしらえといい、誰がみても堅気ではなく、与力に所属する岡っ引と知れた。
この両人《ふたり》は、新之助の歩いて行く後姿を見ると、何やら囁き合っていたが、与力の男だけが、新之助の後を追った。岡っ引は、うずくまるようにして様子を眺めている。
与力は、新之助に追いつくと、
「卒爾《そつじ》ながら」
と声をかけた。
「わたしですか?」
ふりかえると、与力の男が商人のように愛想笑いをしていた。
「ちょっとお訊ねしたいのですが」
「ははあ、どういうご用件で?」
新之助も呼びとめた男が一目で与力と分っている。
「まことに失礼だが」
と与力は眼尻に皺を寄せた。
「お手前は島田殿のお屋敷から出られたようだから少々お訊きしたいのです」
「なるほど」
「島田又左衛門殿とは、どういうご関係ですかな?」
「はて」
新之助は与力の顔をゆっくり見た。
「島田又左衛門に何か不都合がありましたか?」
「いや、決して」
と与力は強く云って、
「左様な訳ではないが、参考までに」
「妙な話を承る」
と若者は云った。
「不都合のない者の身辺をどうして八丁堀がお調べになる?」
「誤解されては困ります。決して左様な筋合ではありません。申し遅れましたが、手前は北町奉行所附の与力下村孫九郎と申します」
与力は丁寧に名乗って、
「それでは、率直にお訊ねしますが、島田殿のところに女客はございませんでしたか?」
「女客?」
新之助は考えるような顔をしたが、これは無論、相手の意図を察知する間《ま》をかせいだのだ。
「女客と申されても漠として居りますな。女にもいろいろある。どういう女客です?」
「それは当方からは申せない。ただ、女客といえばお心当りがあろう?」
「一向に」
と新之助は即座に云った。
「知りませんな」
「しかし、島田殿の屋敷うちには、女中衆が無い筈、女客があれば、当然お手前の眼にふれる訳ですが」
「わたしは座敷には上りませぬでな。無役の旗本だが、瘠せても枯れても七百石の屋敷、庭先より覗いても、とんと誰が来客になっているやら分り申さん」
「失礼だが」
と与力は新之助の顔にまた軽い笑《えみ》を送った。
「島田又左衛門殿と、貴殿とはどういうご関係で?」
「同じことを申される。お答えすることはないと思うが」
「ご姓名も?」
「お断りしたい」
と強く云った。
与力下村孫九郎の顔からは相変らず薄い笑いが消えない。しかし、黙ったまま視線は新之助から離れなかった。これは役人が審問の場合、手強い相手に心理的な動揺を与えようとする常套《じようとう》手段とみえた。
この与力は顔の長い男である。頬骨が高く、眼に粘《ねば》い光がある。これが、じっと新之助を見まもっている。放すのでもなく、ひき留めるのでもないといった態度である。この瞳《め》で見詰められると、嘘を云った人間は思わず眼を伏せるらしい。
新之助は知らぬ顔をした。が、彼にもふと一つの考えが起きたようである。
「思い出した」
彼は急に云った。
「女客の姿は見なんだが、それらしい様子はありましたな」
「ほう」
「玄関の脇に女ものの草履が脱いでありました。左様、いま思い出した」
「なるほど」
与力の顔が和《なご》んだ。
「して、その草履はどのような……?」
「普通の武家の女子《おなご》には派手すぎます。さりとて町家の女の履物ではない。絹の紅緒で裏白、まず、そのように見うけましたが、あれは大奥勤めの女中衆の履物ですかな。その辺のところは、わたしには知識が無いが」
それを聞いたとき、与力下村孫九郎の顔がぱっと明るくなった。
「なるほど、なるほど」
何度もうなずいて頬を綻《ほころ》ばせた。
「して、その女草履は貴殿のお帰りまで、無論、あった訳ですな?」
「いや、もう見えなかったようです」
「なに、無かった?」
与力の顔がまた変った。
女草履が無かったと聞いて、与力下村孫九郎の眼はまた光った。
「では、大奥女中は……いや、その女客は帰ったのですか?」
「それは分らぬ。ただ、わたしは帰りには草履は無かったと申し上げているだけだ」
「奇体な話だ。同じ屋敷の内に居られて、客の帰りをご存じないとは……」
「妙なことを云われる」
新之助は云った。
「わたしには関係ないことだ。わたしは当屋敷の人間ではないからな」
「しかし、この屋敷から出られた」
「それでは野良犬でも穿鑿《せんさく》なさるか?」
「なに」
「ははは。そう申してみたくなる。屋敷の内から出た者が悉く係り合いがあると見られるなら、迷惑な話だ。今も申した通り、わたしは門をくぐって入っていただけだ。座敷の中の模様は知らぬ」
「しかし、屋敷に入られた以上は、主《あるじ》の島田殿に会われたであろうが」
「それが、一向に用事は無かった」
「なに」
「わたしが屋敷に入ったのは、尾籠《びろう》な話だが、厠《かわや》を借用しただけなのだ」
与力の顔が呆れた。
「少々、近ごろ下痢をしていましてな。いや、こういう時の他出は難儀じゃ。かりにも武士の恰好だから、そこいらの町家にとび込むわけにもゆかぬ。さりとて腹の方は承知せぬ。汗をかきました。我慢ならずに、この屋敷をみかけ、傭い人に頼みこんだ始末です」
「………」
「つまり、とび込んだ時には、玄関脇に草履があるのを見かけ、用が済んで出るときには無かった訳です。お分りですか?」
与力が、むっとした顔になったのに新之助は笑いながらつづけた。
「左様なわけで、主の島田殿とやらには挨拶もして居らぬ。従って、女客も見なかった。……が、何かそのお女中に詮議でもかかりましたか?」
「いや、別に」
「奇妙な話ですな。随分、執拗なお訊ねのようだったが。わたしもかようにお訊ねをうけた以上、些《いささ》か承ってもよいと思うが」
「いやいや、別段の儀ではない」
「左様か。しかし、通りがかり同然のわたしに訊かれるより、当屋敷に入られて、直接に主に当られるがよろしいと思いますが」
「貴殿のお指図はうけぬ」
与力は仏頂面をした。
「ははは、余計なさし出口かな。尤も、天下の旗本屋敷にうかつに町方が踏み込めば一悶着起りますからな。では、わたしはこれでご免仕る」
与力の下村孫九郎は、新之助のゆっくり歩いて行く背中を睨んでいたが、塀のところにしゃがんでいる岡っ引を顎でしゃくって呼んだ。
「庄太」
「へえ。如何でした?」
低い声で云った。
「妙なことを云っていたが、女はもう屋敷には居らぬらしい」
下村も岡っ引の耳にささやいた。
「おれもあの女中は居らぬと踏んだ。だが、ただ居らぬでは芸がないからの。何処に行ったか突き止めて見てえ」
「しかし……どういうご詮議でしょうね、大奥で盗みでも働いたのでしょうか?」
「そんなことはおいらには分らぬ。御奉行から直々の命令だ。有体《ありてい》にいえば、御奉行ももっと上の方から云いつけられているのではないかな?」
「へえ、御奉行さまの上といえば、ご老中からでございますか?」
岡っ引は眼をまるくした。
「そんなことは、われわれには分らぬ。とにかく、大事な仕事ということだけは分っている。庄太」
「へえ」
「あの若い士《さむらい》のあとをつけろ。どこに塒《ねぐら》があるか見届けて来るのだ」
「へえ、ようがす」
岡っ引は、新之助の小さくなって行く後姿に眼を凝《こ》らすと、片側の塀の下を伝いながら歩き出した。
与力はそれを見送っていたが、むきを変えて反対に歩いた。しばらく島田の屋敷を見上げていたが、何か思いついたらしく、また足を戻した。
陽はいよいよ沈んで、空に夕映えの色がひろがっていた。人通りの無い、淋しい屋敷町だが、向うから小者がひとり忙しそうに歩いて来ていた。
「ちょっと、訊ねたい」
「へえ」
小者は立ち停った。
「この辺に町駕籠屋があるか?」
「へえ。そうですな。相模屋ってえのが一番近えようです」
「それは何処だ?」
その道順を教わって与力は、今度は大股で歩き出した。
島田又左衛門のところに宿下りの大奥女中が来ているかどうか、出来ればその動静を探るのが下村孫九郎の云いつかった使命である。しかし、当の大奥女中は島田の屋敷から外出している。
足弱の大奥勤めの女のことだ。外出なれば駕籠を傭ったに違いない。即ち、駕籠屋を穿鑿すればその行先が分る、というのがこの与力の推測であった。
「良庵は居るか?」
構えはあまり立派でない玄関に新之助は立った。薬草の匂いが奥から漂ってくる。
見習の男が取次にひっ込むと同時に、この家の主の良庵が自身で出て来た。
「新之助さんか。こりゃ珍しい。思い出したように来たものだね。まあ、上んなさい」
良庵は四十を越している。新之助の父がまだ生きていたころからの馴染だった。町医者だが、若い時は長崎に勉強に行ったこともあって、腕は確かな方なのである。ただ、酒が無類に好きで、気儘な性分だから、それが祟《たた》ってあまり繁昌はしていない。
「相変らず、門前|雀羅《じやくら》だな」
新之助はあたりを見廻した。
「その通り、その代り酒だけは欠かしていない。今夜は飲もう」
「あんたと飲み出したら夜が明けるでな。今日は勘弁願おう」
「ほう。それでは何のために見えた?」
「馬を連れて来たんでね」
「馬?」
「表にうろうろしている。わたしの家を今おしえる訳にはいかないので、あんたのところを思い出して来たのだ」
「やれやれ、ひどい人だ。僅かな飲み代なら立て替えてもよい。何処に居る? しかし、宵にもならぬうちから馬とは豪勢だ」
「そんな粋な馬とは違うのだ。ちと、執拗《しつこ》い野郎馬でな。飯倉からこの下谷まで、埃をかぶりながらくたびれた足をひきずってついて来ている」
「何だね、そりゃ?」
「どこかの目明しらしい」
「へえ、目明し?」
「そう眼をむくほどではない。わたしにも訳が分らないのだ。飯倉の叔父の家を出たら、途端にこんな目に遇ったのだ」
良庵は暮れかかっている表の方に眼を遣《や》ったが、そこらに人影は無かった。
「どこかで見張っているのだ」
と新之助が説明した。
「面倒臭いから、ここの家の玄関から裏口に通り抜けさせて貰おう」
「おや、それだけの用事で見えたのか。念の入った話だ。横町に入って駆け出す訳にはいかなかったものかな?」
「これでも武士の恰好だからね」
「大きにそうだ。しかし、何でもよい、わしの家を思い出してくれたのは有難い。まあ、上って、ゆっくり腰を据えて貰おう。そのうち、先方が待ちくたびれて帰るだろう」
良庵は一旦はそう云ったが、
「しかし、それもどうも落ちつかないな。よろしい。わしが出て行って追い帰してあげよう。新之助さんは上にあがって待っていなさい」
狭い玄関を降りた。
新之助が上りこんでいると、良庵はとぼけた顔で戻ってきた。
「どんな男か、ついぞわしの眼には見当らぬがの。もう帰ったのではないか」
「おおかた、その辺にしゃがんでいるのだろう。折角ここまで送って来た男だ」
新之助は笑って答えた。
「あんたは診察《みたて》はきくが、その方の眼は一向に利かぬからな」
「大きにそうかもしれぬ。しかし、そんな奴に構うより酒にしよう」
弟子を呼んで酒を運ばした。銚子ではなく、一升徳利であった。
「いかんなア、わたしは夜明しの相手は出来ん」
新之助は顔をしかめた。
「無理とはいわぬ。まだ宵だ。……が、帰る当てはあるのか?」
「これでも二本差しているからな。犬猫とは違うようだ」
「今、どこだね?」
「云わぬが花だな」
と新之助は笑って盃をとった。
「そうか」
医者は酒を注ぎながら、
「しかし、兄さんは困っている。この間会ったが、いろいろとあんたについての愚痴を聞いた」
「愚痴よりも悪口だろう」
新之助は云った。
「兄貴は、わたしと違って小心で固い男だ。どうも性分が合わぬ。それに微禄の旗本にいつまでも大の男が厄介もならぬでな」
「自分の生れた家だ。大威張りで寝転んでいたらいいと思うが、照代さんが気遣っていた」
嫂《あね》の名を聞いて、新之助は瞬間に眼を伏せた。このときの彼の頬には、秋の水のような色が流れた。医者はそれを気づかぬ風に眺めて酒をなめた。
「新之助さん、悪いことは云わぬ。どこに居るのか知らぬが、もしいい加減な暮しだったら、早く切り上げることだな。照代さんが心配している」
「嫂には関りのない話だ」
新之助はぽつりと云った。
「わたしが何をしようとね」
「そうか」
良庵はじっと新之助の顔を探るように見た。その視線をうけて、新之助の眼は強く弾き返していたが、急に笑い出した。
「夜明けまでの約束をしなくてよかった。意見を肴《さかな》に飲まれようとは思わなかった。どれ、そろそろ裏口から退散だ」
「新之助さん、待ってくれ」
「まだ足りないか。それならご免だ」
「いや、そうじゃない。別のことだ。腑に落ちぬことがある。あんた、飯倉から岡っ引につけられたと云ったね?」
「ああ」
「飯倉なら、島田又左衛門殿のとこだな?」
良庵は訊いた。
「そうだ。あんたと同じように、わたしの顔を見ると叱言《こごと》を云う男だ」
「どういう筋だね。そこから、あんたが町方に狙われて来たというのは?」
「分らん。わたしも合点が行かぬ。飯倉の叔父が夜盗の頭目にでもなったのかな」
「そこだ」
医者はうなずいた。
「町方が探っているのは島田殿だ。新之助さんは、たまたまその屋敷から出たので、あとをつけられたというところだろう」
「しかし、何故だ。飯倉の叔父が何をしたというのだな?」
「心当りはないのか」
「一向に」
だが、それは嘘だった。心当りはある。叔父と脇坂淡路守の線だった。大奥を敵に廻して闘った前歴のある脇坂安董に叔父の又左衛門が食い込んでいる。しかも、その深入りには縫を道伴れにしている。
又左衛門は大奥政治の弊害を日ごろから痛憤しているのだ。殊に大御所側近の奸臣には怒りを燃やしているが、そこから延命院一件で坊主と大奥女中の不行跡を検挙した脇坂に近づいたのは自然である。
しかし、困ったことは、何か策動めいたことをしようとしているのだ。その企みが無いとはいえない。現に、従兄の女《むすめ》の縫を養女にして大奥に出している。今日、飯倉に行くと、宿下りしたその縫を連れて脇坂の屋敷に行ったという。
見ていて、はらはらするのだ。叔父は敵を甘く見縊《みくび》っているのではないか。相手は妖怪のような大奥である。叔父は向う見ずな冒険をしようとしている。現に、今日、町方が偵察に出ているのは、敵が察知した証拠ではないか──。
しかし、これは良庵にはまだ話せなかった。わざと何故叔父が狙われている、と反問したのは、そのためだった。
「危いな」
医者は、ぼそりと云った。
「なに?」
ぎくりとした。良庵はうつむいて酒を呑んでいる。
「島田殿の身辺を町方が探索している。何かある。何かあるのは、島田殿が何か動いているのだ。その方角は、大体分る。だから危い」
新之助は愕《おどろ》いて良庵を見た。先刻、良庵の診立《みた》てだけをほめたが、これは見直す必要があった。
それとも何か得体の知れない気味の悪さが、臭いのように伝わるのだろうか。
しかし、人間は今、関係の無いことと思っても、一寸先が分らない。その二、三日あとにもう、良庵がその得体の知れないものに、先に捲き込まれてしまった。