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かげろう絵図(上)~吹上

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  吹上 家斉《いえなり》は眼をさました。部屋に薄い陽が射している。六つ(午前六時)を少々過ぎたころだなと思った。このご
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  吹上
 
 
 家斉《いえなり》は眼をさました。部屋に薄い陽が射している。六つ(午前六時)を少々過ぎたころだなと思った。このごろは決ってそうなのだ。年齢《とし》をとると、だんだん眼が早くさめて困る。
 彼は肩を起して、腹ばった。五枚の掛蒲団が少し揺れたが、下二枚は紅の幸菱《さいわいびし》に鴛鴦《おしどり》の模様。これは見えない。唐織白地に色糸で鶴亀松竹を散らした上の二枚の端がずれて老人の背のかたちをもりあげた。一番下の御肌附は紅裏《もみうら》の白幸菱が敷いてある。
 家斉は錦のくくり枕にあごをのせて、片手を伸ばし連台の上の蒔絵《まきえ》の函をひき寄せた。ふたを開けると鼻紙がたたんで入っている。柔かい紙を、さらに女中どもが揉《も》んでひろげたものだ。
 彼はそれを七、八枚つかむと、両手で顔に当て、ちん、と鼻をかんだ。
 間髪を入れず、隣の脇部屋から、
「もーう」
 と大きな声がした。すでに「入り込み」の済んだ宿直《とのい》の小姓の声で、家斉の起きる気配を今か今かと隣で耳をすませていたのである。大きな声は、無論、家斉に聞かすのではなく、大奥の者に大御所の起きたことを合図したのだ。果して遠くの方がにわかに騒々しくなってきた。
 前《さき》の十一代将軍で、先年大御所になった徳川家斉は六十八歳の身体を蒲団の中にまだ沈めたままだった。肌の下がうすく汗ばんでいる。
(だいぶ暖かくなったな。今夜から蒲団を一枚うすくさせよう)
 と思った。敷蒲団は厚板物に金襴《きんらん》の縁をとった五、六寸厚みのものを二枚重ねてある。厚板物というのは、能の衣裳に使うような厚地の織物だ。
 やはり、春だな、と考えたとき、
(そうだ、今日は桜見だった)
 と思い当った。すると彼は、にわかに生活の変化を得たように、眼が輝いてきた。
 家斉は頭は禿げてきたが、まだ腰は曲っていない。大きな体格を白羽二重の小袖につつんで控の間に行くと、待っていた奥女中どもが平伏していた。
 畳の上には鍋島|段通《だんつう》を敷き、湯を入れた黒塗の二尺たらいが置いてある。別のところに八寸角の塗台にのせた唐草模様の大茶碗、湯を入れた桶、大奥歯医師の調進した香歯磨粉の皿一枚、傍の一枚には赤穂の焼塩を盛り、房楊枝が添えてある。
 家斉が膝をついて湯にかがみ込むと、中年寄が彼のうしろにすすんで、両袖を支えた。すぐには顔を洗わないで、幅二分くらいな舌こぎを口の中にさし入れ、げえ、げえ、と異様な声を立てはじめた。別のお清の中臈《ちゆうろう》が黒塗のたん吐きを置く。
 家斉は、それへ、ぱっと唾を吐くと、
「美濃《みの》は来ているか?」
 と女中に訊いた。美濃とは御側衆水野美濃守|忠篤《ただあつ》のことである。
 中臈が家斉の問いをうけて畏《かしこま》った。
「美濃守様は昨夜は不時の宿直《とのい》にてお詰めでございます」
 家斉は満足そうにうなずいた。
「そうか。美濃は相変らず出精するな」
 少し考えて云った。
「後刻、参るように申せ」
 機嫌がいい。湯桶に向って顔を洗い出した。白木綿のぬか袋で満べんなく皮膚をこする。女のように、ていねいで時間をかけた洗い方であった。六十八歳とはみえぬ顔|艶《つや》が彼の自慢なのだ。
 年増《としま》女のような手間どった洗顔が終ると、家斉は女どもに手伝わせて、着更えをし、袴をつける。当人はなすままに幼児のように突立っていた。
(花見か。美濃なら手抜かりなく用意させるに違いない。多喜《たき》によい席をとらせるであろう)
 家斉は雛人形のように着物を着せられながら考えていた。
(あの女は利口だ。それに学問がある。この間の夜は源氏物語の講釈をしおった。変ったやつだ。褥《しとね》の中でむつごとの代りに、源氏を聞こうとは思わなかった。しかし、可愛い。ほかの女どもは、どうも素養がない)
 家斉は、去年の夏から手をつけた中臈多喜のことをぼんやり思っていた。十七という若い身体も、この老人には玩具のような魅力であった。
(美代もいいが、少しものを知らぬ。法華《ほつけ》、法華と、そればかりうるさく申しおる。それに、身体も下り坂だ)
 家斉は一番気に入りの中臈美代の顔を思い浮べた。このごろ、笑うと眼じりに寄る小皺《こじわ》が目立ってきた。いつまでも若いと思っていたが、やはり年齢なのだ。十一歳で加賀の前田に嫁《とつ》がせた溶《よう》姫と、安芸の浅野にやった末《すえ》姫と二人の子を生んでいる。
(子といえば──)
 と家斉は、ふと思い当ったような目つきをした。
(多喜が——妊《みごも》ったと申していたが)
 この前の夜、それは間違いないか、ときいたところ、多喜は耳まで紅くして確かにそうだと答えた。医者が四月《よつき》だと云ったという。家斉は、この年齢になって、まさかと思っておどろいたのである。
(すると、今度は何十人目だろう?)
 家斉は、先日、やはり中臈の一人の|いと《ヽヽ》が子を生んだとき、五十四人めだと年寄に教えられていたのを思い出し、五十五人めになる、と胸算用した。
(よくもつづくものだな)
 家斉は自分の身体の内部に異常な生きものがひそんでいるように思えた。
「水野美濃守様、控えておられます」
 その声に家斉はわれにかえった。着つけはとうに済んで、皆は頭を下げていた。
 家斉は、御小座敷で食事をした。どうも食欲が起らない。懸盤《かけばん》の上の器をじろりと眺め、飯を一口食い、鱚《きす》の附焼きに一箸つけただけで、あごをしゃくった。外黒塗、内朱塗、定紋つきの膳はうやうやしく引かれた。
 入れ違いに、御髪番《おぐしばん》の小姓四人、御小納戸《おこなんど》二人が膝行《しつこう》して来て家斉のうしろに廻る。元結をとき、髪を結い直すのだが、彼らとしては大難儀である。家斉の禿げて少くなった髪を出来るだけ手間をかけて結い上げるのだ。それから顔と月代《さかやき》を剃る。前頭部には薄毛も無いが、剃刀《かみそり》をていねいに当てる。
 その間に控えていた西丸附奥医師が四人、空気のように音を立てないですすみ寄った。法印中川|常春院《じようしゆんいん》が一礼すると、家斉は黙って手をさし出し、前で交叉した。常春院が両手首の脈のところに糸をしずかにくくりつける。面を伏せたままで、家斉の顔を直視することは許されない。
 家斉は眼を閉じて、考えごとをしていた。
(花見に何か趣向はないか──)
 一方の手首の糸は下段まで延びて、常春院と法眼《ほうげん》栗本|端見《たんけん》とが畏って代る代る端をつまんでいる。他方の手首の糸は、法眼|河野良以《こうのりようい》と、同じく吉田|長禎《ちようてい》とが、低頭しながら、糸に伝わる脈の速さをうかがっていた。
(多喜は和歌がうまいな)
 家斉は顔を剃らせ、糸脈をとらせながら考えを追っていた。
(桜の歌でもつくらせるか)
 四人の医師は頭を下げたまま、一心不乱に脈を測っている。
(しかし、ひとりでは詰らない。そうだ、大勢の女どもに詠ませよう)
 大そういいことを考えついたように思えた。これが気に入った。眼を開けると、常春院が静かに糸を手からはずし、
「今日もご機嫌よろしく、大慶至極にござります」
 と平伏した。
(当り前だ。まだ変ってなるものか)
 身体には自信があった。御髪番や奥医師どもが退ると、
「美濃を呼べ」
 と家斉は云った。
 側衆水野美濃守忠篤が膝を動かして敷居際に手をつき、
「ただ今、常春院殿より伺いましたが、大御所様にはいよいよご機嫌|麗《うる》わしく、恐悦至極に存じ上げます」
 と挨拶した。顔もきれいだが、声もきれいな男である。
「美濃、昨夜は不時の宿直《とのい》であったそうだな?」
 家斉はおだやかな眼をむけた。
「御意」
「今日の花見の支度の指図であろう。これへ来い。予に思いついたことがある」
 美濃守が呼ばれて前にすすんだ。
 家斉は、間近に進んできた美濃守忠篤に、
「今日の桜見には女どもに歌をつくらせようと思うがどうじゃな」
 とのぞきこんだ。
「それは一段と御興を添えまして、結構と存じまする」
 美濃守は即座に答えた。
「面白いであろう。用意もいることであろうから、女どもに左様伝えろ」
 家斉は、てかてかと光る赭《あか》ら顔に、機嫌のいい笑いを皺立てていた。
 美濃守は同意しておいてさり気ない表情をしているが、眉の間がかすかに曇った。頭脳の回転の速い彼は、早くも家斉の気持を察した。これは近ごろ、ご寵愛の深い多喜の和歌の才能を披露させようとの魂胆である。
 今日の花見には、西丸大御所附の奥女中が総出である。これには、美代、八重、いと、るり、そで、蝶、多喜などのお手つきの中臈がそれぞれ茶屋に陣どって観桜する。それにお目見え以上の女中どもが二百人近く出るから大そうな人数である。だが、この中で、和歌の上手にかけては、多喜の方の右に出る者はまず一人もいないように思われる。
 困ったことになった、と美濃守は思った。ほかの女たちはどうでもよい、お美代の方の立場が甚だ都合悪くなるのである。
 お美代の方は、御納戸頭取中野|播磨守《はりまのかみ》清茂の養女と表面はなっているが、実は智泉院|日啓《につけい》という法華宗坊主の生んだ娘なのである。美代が駿河台の中野の邸に奉公に来たのを、播磨守がその顔の美しさに眼をつけ、己《おの》が養女として大奥へさし出したのだ。当時十一代将軍であった家斉の目に止り、数多いお手つき中臈を追い抜いて君寵第一となった。それは彼女の怜悧《れいり》さにもよったのだ。
 顔も頭もいいお美代の方は、本丸大奥に着々と勢力をひろめた。家斉が六十五歳で五十余年間の将軍職を辞め、世子|家慶《いえよし》に譲って、大御所となり、西丸に退いてからも、お美代の勢力は西丸大奥を蔽った。養父中野播磨守をはじめ、林肥後守、美濃部筑前守、水野美濃守など家斉の側臣は彼女の手中にあった。天保五年に死んだが、家斉の寵信をうけ、天下に勢威を張った老中水野出羽守|忠成《ただあきら》も、お美代の方の操縦に意のままだった。
 それほど利口なお美代の方も、文学の素養となると話は別である。和歌の競作となると多喜の方とでは太刀打ちがならない。勝負ははじめから分っている。それでなくとも、このごろ家斉の老醜に近い盲愛をうけていて、ぐんぐん頭をもたげてきた多喜の方に、お美代の方は不快をもっているのだ。いや、多喜の方が家斉の五十何人目かの|たね《ヽヽ》を妊《みごも》ったと聞いて、お美代の方は彼女に敵意を抱いてきている。
 風雅な観桜が、次第によってはとんだ修羅場にもなりかねないと、水野美濃守忠篤は当惑したのであった。
 
 水野美濃守は家斉の前を退ると、お坊主を介して、中年寄の菊川に面会を求めた。お坊主といっても、大奥では初老に近い女が頭をまるめているのである。
「これは水野様。昨日からもろもろのお手配、さぞお気疲れでございましょう」
 菊川はお広敷に出て来て、美濃守の顔を見ると、眼を細め、微笑して挨拶した。
 桜見は奥女中にとって、年に一度、解放感をたのしむ行事である。この日は無礼御免の定めで、女中どもはそれぞれの場所へ集って奥御膳所から運んだ酒料理をひらく。宴がたけなわになると、花の下に思い思いに寄って、唄ったり、狐拳したり、鬼追いをしたり、芝生に酔った身体を寝転がしたりする。笑おうと、踊ろうと勝手であった。茶屋茶屋には餅、田楽《でんがく》など売る模擬店が出た。女中どもはこの日のために、かねて用意した衣裳を着飾るのである。大奥中が花見のお触れが出るのを、何十日も前から待っている。
 だから、吹上の庭は前日からその用意に混雑した。まず、新口《しんぐち》御門、吹上門は常勤の番人が立ち退かされ、添番《そえばん》や伊賀者が警固する。花の樹間には、御紋染抜きの幔幕を張り囲めぐらし、芝生には薄縁《うすべり》を敷く。吹上の茶屋は滝見茶屋をはじめ、十四、五カ所あったがその飾りつけも大そうなものである。
 その準備万端を水野美濃守が家斉の意をうけて、前日から不時の泊り込みで差配した。中年寄菊川の言葉は、その労を犒《ねぎら》ったのだ。
「なんの。それぞれのことは、お年寄衆のお指図にて、お道具掛りなされますので、手前はただぼんやり見ているだけでございます」
 美濃守は一応謙遜して、
「それよりも、菊川どの、ただ今、大御所様が仰せ出されましたが、困ったことができました」
「困ったこと?」
 菊川は微笑を顔から消した。
「何でございましょう。今日のお花見がご変更にでもなったのでございますか」
「いや、そんなことではありません。実は大御所様仰せには、今日の桜見には女どもに三十一《みそひと》文字を作らせ、歌くらべをさせよとのことでございます」
「歌くらべ?」
 菊川は眉間《みけん》に小さな立て皺《じわ》をよせた。男を知らぬ年増女のふしぎな匂いが、そのしかめた表情から漂った。美濃守の心は、どこかでそれをたのしんでいた。
「左様、大御所様は、このご趣向がお気に入りのようです」
 美濃守が云うと、菊川はいよいよ暗い顔をした。彼女にも家斉の真意が推測できたのである。
 菊川も、美濃守も、お美代の方の腹心であった。両人はしばらく顔を見合せた。
 菊川は困《こう》じ顔で云った。
「それは難儀なことでございます。大御所様がさように乗気に思し召すからには、申し上げてもとてもお取り止めにはなりますまい。美濃さま、如何《いかが》したものでありましょう?」
「されば、お美代の方様のぶんは、どなたかご代作を頼んだ方がよろしかろう」
 美濃守は正直な意見を云った。
 菊川はうなずいた。しかし、それは仕方がないといったうなずき方であった。代作といっても、多喜の方以上にうまい歌が出来る才女は奥女中にいないのだ。だれが作っても、彼女の詠《よ》む歌に負けそうである。
 今日の桜見の歌合せで、お美代の方が恥をかく。が、問題は単に歌の上でのことだけではなかった。お美代に対立する多喜の背後には家斉夫人|寔子《ただこ》の存在があった。
 多喜の方は、寔子夫人つきのお三の間であったのを、家斉がその美貌に眼をつけて、年寄を介して、夫人から中臈として申し受けたのであった。家斉は生涯を通じて、四十数人の侍妾があったが、お手つきの中臈を夫人の側仕者からとったのは、多喜の方だけである。
 だから、今まで君寵第一を自負してきたお美代の方としては、多喜は家斉夫人の廻し者のように思っている。
 一体、家斉と夫人寔子の間は長らく不仲であった。寔子は島津二十五代の藩主|重豪《しげひで》の女《むすめ》であるが、左大臣近衛|経熙《つねひろ》の養女となり、家斉のもとに輿入《こしい》れした。
 島津重豪は、気性|豪邁《ごうまい》、つとに海外文物の輸入につとめ、その貿易によって藩庫を豊かにし、治績大いに上った。隠居して栄翁と称し、天保四年に八十九歳で死んだが、生存中は、池田一心斎、一橋|穆翁《ぼくおう》(家斉の父)とともに天下の三隠居として幕府の執政者を憚《はばか》らしめた。
 家斉夫人寔子は、父の血をうけついだのであろう、大そう勝気な性格である。四十数人の侍妾をもち、そのうち十数人に五十四人の子を生ませた家斉の女道楽に愛想を尽かしたか、それとも愛妾と愛臣の云うままに政治を忘れ、歓楽に没入した所業を憎んだか、滅多に家斉と打ち融けて同席したことがなかった。
 もっとも、家斉もはじめからそれほどの暗愚ではなかった。彼が将軍になった初政は、松平定信あり、のちには松平信明、本多|忠籌《ただかず》などがあってよく彼を補佐し、相当の政治をした。寛政、文化と秩序よく治まった。
 しかし、中年以後になると、水野|忠成《ただあきら》のような巧言令色をもって家斉に媚《こ》びる老中が現れ、大奥の意を迎え、奢侈《しやし》の風、上下に興った。家斉もいい気になって逸楽に耽溺《たんでき》の日を送る。下にも遊蕩の気風|漲《みなぎ》り、江戸はいわゆる文化文政の爛熟期である。
 家斉は、はじめは、何とか神妙に政治をみていたが、やがて我儘の虫が抑え切れなくなった。
 その我儘を増長させたのは、西丸老中から転じて勝手用掛となった水野忠成である。忠成が老中格となると、早速、金銀の吹替を断行した。幕府の財政は窮乏して当時四十万両しかなかったものを、この吹替によって、天保三年より十三年間、約七百五十六万両の利益金を上げた。忠成はこの功によって前後二万石を加増された。その代り、この悪貨|改鋳《かいちゆう》によって諸式物価は暴騰し、迷惑したのは一般人民である。
 もっとも、忠成加増の理由はそれだけではなく、家斉の生んだ子女四十数人を各大名の養子や夫人に縁組みさせた手際のよい手腕である。それで家斉の忠成に対する信任は一通りではなかった。彼の請願すること、何一つとして諾《き》かれぬものがない。
 だから立身出世を求めようとする者は、金銀の進物をもって忠成の第邸に押しかけた。賄賂《わいろ》なしには出世の手蔓《てづる》が掴めない。田沼時代の賄賂横行がこの時より再現した。
 忠成の死後も、この弊風はつづいた。無論、家斉の寵臣の許にしきりと黄金を秘めた進物の使者が群れた。
 晩年の家斉の寵臣といえば、中野播磨守、水野美濃守、林肥後守、美濃部筑前守などだが、最も寵愛をうけたのは中野播磨守清茂だ。彼は持高三百俵の小姓であったものが、新御番格、二千石に出世した。が、どういう一念からか、天保初年に隠居して向島に、賄賂でとり込んだ金で広大な別宅をもち、石翁《せきおう》と号した。
 隠居といっても、彼の場合は他と少し違う。頭をまるめても、依然として城中に出仕し、宿直《とのい》さえもする。その宿直も二晩も三晩もつづくのである。世間には家斉の相談相手のような印象を与えた。彼に向って賄賂が集中するのは当然だ。そのため、石翁の邸の附近には、進物の店が立ちならび、一つの町が出来たくらいである。
 中野石翁の絶大な信任は、どこから来たか。根元は彼がお美代の方の養父だという理由だけである。だから、どんなにお美代の方が家斉の晩年の愛を独占していたか想像がつくのである。
 側衆水野美濃守忠篤も、このお美代の方にとり入って、家斉の覚えめでたい一人なのである。
 しかし、お美代の方にも怖い人がひとりある。云うまでもなく、家斉夫人寔子である。
 近ごろ家斉が愛を傾けている多喜の方が夫人つきの中臈であったところから、お美代の方一派は、これは夫人側の己に対する対抗だと意識していた。
 お美代の方一派にとっての、その上の衝撃は、多喜の方の妊娠であった。五十数人の子を生ませた家斉の胤《たね》を新しく宿したからといって珍しくはないし、子を渇望した五代綱吉のような場合とは違うが、それでも齢老いて出来た子は可愛いものである。もし、多喜の方に子が生れたら恐らく末子であろうし、すでに七十に間もない家斉の愛情はその子に注がれるに違いない。ひいては多喜の方への鍾愛《しようあい》は深まるばかりである。お美代の方にとってはそれが恐ろしい。
 それに、若いのだ。これは敵《かな》わないのである。十七歳の多喜の方の頬は、皮膚から光が透き出て輝くように見える。どのように美しいと云われても、お美代の方は四十の峠を越している。眼のふちに無情に寄る小皺は防ぎようがなかった。
 それから多喜には、どこで身につけたか文学的な素養があった。家斉に古歌だの源氏物語だのの講釈をするらしい。家斉がまたそれを珍重しているようである。彼には、もとからそんな興味はないのだが、結構、小娘の小賢《こざか》しさを面白がっているのだ。今までの侍妾に無かったものが珍しいのである。
 もし、家斉夫人がお美代への対抗として多喜の方を家斉にさし出したとすると、お美代は容易ならぬ敵を迎えたことになる。
 多喜の方の素姓は、お美代の側には、はっきりと分らない。寔子夫人が島津家の出であるから、多分、薩摩藩士の女《むすめ》であろうという者がいる。夫人が近衛前左大臣の養女になっているから、京都の方から呼び下したのであろうと推測する者もいる。いや、そうではない、あれは町家の娘だが、夫人が今日の下心があって京風の素養を訓《おし》えたのである、と説く者もいる。いずれにしても、法華宗だけに凝っているお美代の方には無い教養を彼女はもっていた。奥女中の中にも、そろそろ多喜の方の趣味に憧《あこが》れるものが出てきた。
 一体、大奥には以前から京風の風習が流れていた。四代家綱の時には、まだ春日局《かすがのつぼね》以来の質朴さが残っていたが、夫人が伏見宮の姫で、それに従って下向《げこう》した|右衛門佐 局《うえもんのすけのつぼね》、飛鳥井局《あすかいのつぼね》などによって、大奥の行儀が著しく京風の格式になったのだ。だから、もともと、多喜の方の趣味が大奥女中に受け入れられる素地はあったのである。
 今は、お美代の方が権勢第一で、女中どもは、いや、諸大名までも猫も杓子《しやくし》も法華信者に転宗しているが、これから先の雲行によっては多喜の方の進出によってどうなるか分らない。お美代の方の庇護をうけて陽の目をみている水野美濃守の不安は、己の前途にもかかっていた。
「水野美濃守さま、大御所様がお召しでございます」
 お坊主が呼びに来た。
「美濃」
 と家斉は云った。少々、浮かない顔をしている。
「今、奥より使いを寄越しおっての。桜見には|あれ《ヽヽ》も出たいと申しおる」
「それでは、大|上様《うえさま》が?」
「うむ」
 家斉は傍の可愛い小姓に爪を剪《き》らせていた。
 大上様とは大御所夫人寔子のことである。美濃守が思わず問い返したのも道理で、家斉と合わない夫人は、ここ十数年来、私生活でも離れているばかりか、公式の場所に滅多に同列で出たことがない。いつも微恙《びよう》を云い立てて引籠っていた。
 それが、突然、今日の吹上の観桜には出るという。突然といってもいい。五、六日前に、美濃守が聞いた意向では、例年通り、出席しないということだった。だから、昨日からの準備には、夫人の席は設けていない。
 美濃守は心でうろたえた。この狼狽《ろうばい》には二つの意味がある。急いでその設営をしなければならないことと、夫人の唐突な通告は、お美代の方に対して夫人が俄かに戦闘的になったということである。
 そのことが多喜の方につながっていそうに思われる。つまり、夫人側が今日の桜見に歌くらべがあると聞いて、急に出てみる気になったのであろう。これは多喜の方への応援であり、お美代の方に対する無言の威圧となる。
 家斉も夫人が珍しく同席するときいて興ざめな顔つきをしていた。が、家斉がそんな顔をするのは、単に、仲の合わない夫人が出てくるのが面白くないのだ。が、美濃守の屈託はもっと複雑なところにあった。
「美濃。多喜の席はよい場所に設《しつら》えたであろうな?」
 家斉は念を押した。たとえ夫人が出ても、それで悪い場所に移してはならぬぞ、という心配である。
「御意の通り取り計らいましてござります」
 美濃守は心得たように答えて退った。
 だが、美濃守の念頭にはお美代の方があるだけである。今までの計画では、吹上の滝見茶屋に家斉の座所を設け、お美代の方を同席させるつもりだったが、夫人が出席するとなると、そこには夫人を迎えなければならぬ。
 すると、お美代の方は、大御所に最も近い茶屋へ譲らねばならない。そこは多喜の方を予定していたのだったが、家斉の言葉はどうでもあれ、多喜の方にはどこか端に移ってもらうほかはない。
 何といっても、彼にはお美代の方が第一なのである。折角、これまでに得た彼女の信寵をここで失ってはならない。──
 そのうち桜見の刻限が迫ってきた。
 風は多少冷たいが、空は晴れ上って、春の光が大気に充満している。
 巳の下刻(午前十一時)家斉夫人の赤塗に金着せの鋲《びよう》を打ち飾りとした乗物が紅葉山下門を通過、吹上矢来門を入ったところで地に降りた。
 夫人は乗物から出た。五十すぎた大柄な女である。眩しそうに眉をしかめたのは、奥暮しの人間の眼が、こういう広い外光に当って戸惑ったからである。お附の中臈がお草履を揃える。夫人はそれに足をのせ、お襠《かいどり》を手に支えて搦《から》げた。中臈が、夫人の一方の手を把って歩き出した。夫人の柄が大きいので、きゃしゃな身体の中臈の方が、かえっていたわられているように見えた。
 夫人は、お徒歩《ひろい》で釣橋を渡り、花壇を横に見て、滝見茶屋に向った。西丸老中はじめ、各役人、年寄、中年寄、中臈以下の奥女中の主だったもの、御広敷用人などお目見得以上の奥向き役人がお道端にならんでお迎えした。
 夫人が滝見茶屋に入ると老中以下の諸役人が改めてご挨拶を申し上げた。夫人からは、それぞれ短い言葉でご会釈がある。少し嗄《しわが》れて低い声だから、何を云ったのか聞き取れない。その代り、眼ばかりはよく光る。
 夫人は、あたりに眼を配った。桜はこの広大な地域に咲き揃っているが、夫人の視線はそれに止っているのではない。右から左へ撫でるように二、三度往復する。芝生の彼方、木の間がくれにいくつもの茶屋の檜皮葺《ひわだぶ》きの屋根が見えかくれしている。どの茶屋にも奥女中が屯《たむろ》しているのだ。
 滝見茶屋の御座所近くに先着していた水野美濃守は、ひそかに夫人の眼の動きを観察していた。
(ははあ、お美代の方の場所を探しているのだな)
 と彼は思った。すでに夫人の眼の光にこもる敵意を彼は読みとって、ぞっとした。
 お美代の方のためには花壇茶屋を美濃守はとっている。滝見茶屋から築山を隔てて十数間のところにあった。これはお美代の方だけに独占させた。
 多喜の方は鳥籠の茶屋に席を設けた。家斉と夫人が坐る滝見茶屋からは東の方三十間の距離にある。無論多喜の方だけではない。八重の方、るりの方、いとの方と同居なのだ。美濃守には、家斉の思召しよりも、お美代の方の逆鱗《げきりん》にふれるのが怕《こわ》い。
 家斉などは、どうせお美代の方の意志に操縦されると思っている。お美代の方に忠義立てした方が身のためだと考えたのだ。
 警蹕《けいひつ》の声が聴えた。大御所家斉の到着だった。
 吹上庭への大御所の行列は、御小人《おこびと》目付が先払となり、御徒《おかち》目付、小十人、小十人組頭がつづき、乗物の前後には、新御番頭と側衆御小納戸が衛《まも》る。つづいて奥坊主、お数寄屋坊主が従い、御道具、日傘、日覆、挾箱《はさみばこ》、沓箱《くつばこ》持が附属する。
 隠居の身分の大御所としては将軍なみの大げさな行列だが、本丸にいる現将軍|家慶《いえよし》を抑えて、政令の実権を放していない家斉らしい派手やかさである。
 家斉は大勢の出迎えをうけながら、滝見茶屋に入った。
 西丸老中はじめ主だった者から、それぞれ、
「今日は格別のご機嫌にてお成りを頂き祝着に存じます」
 と御礼を申し上げる。家斉はそれへ短く挨拶して二、三間離れたところに坐っている夫人寔子と眼が合った。
(いやな婆《ばば》アが来たものだな)
 と家斉は視線を逸《そ》らせた。眼の正面には、幽谷《ゆうこく》の瀑布《ばくふ》になぞらえて巨石をたたみ、滝水が落ちている。
 家斉は、やはり夫人から圧迫感を受ける。女という感じはとうから無くなっていた。今日、ここで顔を合せることも珍しいが、いつ見ても、
(年老いてますます人間放れがしてきた)
 と思う。大柄で、いかつい顔の皺が、古い木目《もくめ》のように出て来ている。それを見ていると相手の妙な貫禄がこちらに伝わってくる。
 滅多に同席しない夫人が、何で今日はここに出て来たのか、家斉は薄気味悪いような、折角の楽しみを削《そ》がれたような、複雑な不快が胸の中を匍《は》い上ってきた。
 それを紛らわすように、家斉は眼を庭に向けた。一面の桜はすでに九分咲きで、ときどき白い花片《はなびら》がこぼれていることで微風のあることが分った。
 芝生の青草が、明るい陽の下で萌《も》えている。
 そもそも、吹上の庭は、家康入国の時は野山であって、春は桃、桜、躑躅《つつじ》などの花が咲き、江戸貴賤の遊山《ゆさん》所であったのを、家康の隠居所にもと外がまえの堀や石垣が出来て、一郭とした。東西約五町、南北十町、面積およそ十万三千余坪という大そうなものである。
 その後、度々の改修があって、元禄のころに、新|構《かまえ》、広芝、田地《たち》に分け、新構には、花壇、馬場、並木茶屋、新構茶屋、三角矢来などがあり、広芝には琵琶湖の景をうつした大池があり、元禄中には綱吉が舟を泛《うか》べて遊楽した。その南に眺望第一の富士見台がある。苑中第一の滝見茶屋の西に眺められる滝は、「目出度《めでた》水の末は清き流れにて、杜若《かきつばた》、おもだか、其ほか水草あまたあり」(樹の下露)というありさまだった。
 今を咲き誇る桜や、滝水を見ていた家斉の眼が、次第に輝いてきた。
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