遺体は無事に引取人に渡された。引取人は福岡市内でそれぞれ荼毘(だび)に付して、遺骨箱をかかえて帰った。香椎浜の情死事件はなんのとどこおりもなく、まったく声一つ出ない平穏さで、時間の経過に乗って通過したのであった。
鳥飼重太郎が口をはさむ余地はどこにもなかった。彼の心に引っかかっているものが二つある。一つは「御一人様」の食堂車の伝票である。愛情と食欲の問題だ。一つは女が佐山と一つ宿にとまらずに、五日間もどこに行っていたかという疑問である。
だが、これは、この情死事件の異論として提出するには、あまりに弱かった。主任は取りあってくれないであろう。じっさい彼自身も、客観的に考えれば、いかにも薄弱な根拠でしかなかった。だから重太郎も、納得(なつとく)のゆかない気持ながらも、口をつぐんでいっさいの進行を見送ったのであったが、口を出し得ないことと、心の落ちつきとは別のことである。いや、口が出せないだけに、気分のもやもやとしたものは、いっそうこうじたのであった。この二つのはっきりした答が出ぬ以上は、彼の心は何としても落ちつけそうになかった。
(たかが情死ではないか)
と彼は、一度は思いなおしてみた。しかし、変にこんどのことは気になって仕方がなかった。これは犯罪ではない。ほうっておけばよいことである。それよりも新しい事件はつぎつぎに起こって、やらねばならない仕事は彼を待つであろう。しかし──彼は、この引っかかりが解(と)けない以上、いつまでも気分がはれないように思えた。
「よし、これは誰にも言わずに、一人で調べてみよう」
と、彼はつぶやいた。そう決心すると、今まで気重かった心が妙に軽くなった。
この情死事件は、汚職事件に関連してちょっと新聞を騒がしただけで、彼の頭上をすうっと通過した。あまりになめらかな通過であった。情死という平凡さに、すぐ答が出たのか、途中の運算がない。答が出る前の手数が、どこかにはぶかれているような空隙(くうげき)を感じるのだ──。
重太郎は、心中死体のあった香椎海岸の現場に、もう一度行ってみようと思い立った。
彼は市内電車を箱崎で降り、和白(わじろ)行の西鉄電車に乗りかえた。香椎に行くには、汽車の時間をみて行くよりもこの方が便利である。電車は国鉄よりも海岸沿いを走った。
西鉄香椎駅で降りて、海岸の現場までは、歩いて十分ばかりである。駅からは寂しい家なみがしばらく両方につづくが、すぐに切れて松林となり、それもなくなってやがて、石ころの多い広い海岸となった。この辺は埋立地なのである。
風はまだ冷たかったが、海の色は春のものだった。荒々しい冬の寒い色は逃げていた。志賀島(しかのしま)に靄(もや)がかかっていた。
鳥飼重太郎は現場に立った。現場と見おぼえがつかないくらい、あたりは黒い岩肌のごつごつした、特徴のない場所であった。どのように格闘しても、絶対に痕跡を残しそうにない場所であった。あたりの風景とくらべて、ここはいかにも荒涼(こうりよう)とした場所であった。
重太郎は、佐山憲一とお時とが、どうしてこのような所を死場所にえらんだのであろうか、と思った。もっと、どうかしたところがありそうに思える。情死者はたいてい贅沢に選択するようだ。温泉地や観光地がそうである。まあ、ここも眺望はよいが、この堅い岩肌の浜辺にしなくても、柔らかい草地にすればよさそうに思えた。
しかし、あのときは夜だったな、と重太郎は気づいた。八時ごろ宿を出て、十時ごろにはここで情死している。まるで最初から決定でもしていたようにまっすぐにここに来ている。暗い夜なのだ。いかにも勝手知った場所のように思えそうであった。
すると、──すると、佐山とお時のどちらかは、以前にここに来たことがあるのではないか、と彼はふと考えてみた。警察でいう犯人の土地カンである。どうも、そういう土地にたいする知識なしには考えられないような二人の行動であった。
重太郎は、少し急ぎ足でもとの方へ引きかえした。西鉄香椎駅を通り抜けて、国鉄の香椎駅へ向かった。この二つの駅の間は、五百メートルぐらいしかない。道の両側は、ややにぎやかな町なみであった。
駅につくと、電報受付口に行って、ポケットから古びた手帳をとり出し、書き取った住所を見て、二つの電報を打った。佐山憲一の実兄と、お時の実母にあてた問い合わせである。苦心して二十字以内ですむように文句を考えた。
それがすむと、彼は構内にはいり、時刻表を見あげた。二十分ばかりで博多のほうに行く下りの列車のあることを知った。
それを待つ間、刑事はポケットに両手を入れて駅の入口に立って外を眺めた。うら寂しい、変化のない駅前の風景である。お休所と書いた飲食店がある。小さい雑貨屋がある。果物屋がある。広場にはトラックがとまり、子供が二三人遊んでいる。あかるい陽ざしがその上にあった。
重太郎はぼんやりそんな光景を眺めているうちに、突然に一つの小さな疑問が頭の中に浮かんだ。
今まで佐山たちは、電車で西鉄香椎駅に降りたこととばかり思いこんでいたのだが、あるいはこの香椎駅へ汽車で来たかもしれないのだ。ふたたび時刻表を見上げると、博多の方から来る上りで二十一時二十五分があった!
鳥飼重太郎は目をつむった。一分間ばかり考えた末、汽車に乗ることをやめて、駅前を横切って店の方へゆっくりと歩きだした。あることを質問するためであった。彼は予感に胸騒ぎを覚えた。