父がそう言ったのは、昨年の十二月のことだった。私は、印刷の仕事をやめてこれから仕事はどうするのだろう、私達家族の生活は大丈夫なのかという不安の気持ちでいっぱいだった。
私の父は十五年間自営業で印刷の仕事をしてきた。私が物心ついた頃から、家の離れを改築して作業所としていた。
平成三年四月、父は水野印刷を設立した。その二週間後に私は、川崎病にかかり二ヶ月間入院した。四十度の熱が二週間続き、家族は大変心配した。父も忙しかったが、仕事を終えてから度々病院に来てくれたそうだ。生後七ヶ月だったため、母はつきっきりで病院にいたので、父はさぞかし苦労したと思う。
私の小さい頃の遊びの場所は、父の仕事場だった。印刷機械のがチャンガチャンという音を聞きながら一人で遊んでいた。母はパートの仕事をしていたので、日中は一人で過ごさざるを得なかったのだ。しかし父がそばにいると思うと、寂しくはなかった。
夜、父はご飯を食べるとそうそうに仕事場へ戻ってしまう。だから父と一緒の家族団らんの時間があまりなかった。日曜日も父は仕事をしていた。サラリーマンの父を持つ友達に、「いいね、お父さんが決まった時間に帰って来てうらやましい。」と言うと、「いつもお父さんが家にいていいじゃない。」と言われた。
私は父と一緒にもっと遊び、話す時間を持ちたかった。寂しくてよく母に、「お父さんも普通のサラリーマンだと良かったのに。」と言ったりした。
父は、夜も遅くまで仕事をしていて、そのまま机に頭を伏せて眠ってしまっている姿を度々見かけた。私も母も、家族のために休みなく働いている父の体が心配だった。父が食事の時間に来れなかったりすると、母は心配して仕事場へ食事を届けた。今考えると父は、どんなにかつろいでゆっくり休む時間が欲しかっただろうと思う。
1年賀状の季節になると、近所の人や知り合いの人が印刷を頼みに毎年やってくる。そして近況報告をしたりしながら交流を深めている。これは貴重な時間だと思う。地域の人達と仕事を通してコミュニケーションを図れるのだから素晴らしいと思う。母も印刷された年賀状を届けながら、お客さんと話が出来るのが何よりも楽しいと言っていた。
しかし、順調に仕事が続いていたのが、ここ数年めっきり仕事の量が減ってきた。父の印刷は、名刺、はがき、封筒しかできないので限られてくる。パソコンで印刷が出来てしまうので、わざわざお金を出してた頼まなくても良いのである。
父と母が深刻な顔をして相談している姿が何度となく見られるようになった。私の家は、大学生の兄と高校生の私と父、母、祖父母の六人家族である。今が一番お金がかかる時で、父は決断したのである。思い切って転職を考えたのだ。
教習所に通い、大型の自動車の免許をとった。今年の一月から運送会社に勤めだした。慣れない仕事のため、一日中怒られ通しの日が何日も続いたと母から聞いた。家族のためにかなり我慢をしているのだと思う。
自分で立ち上げ、十五年もの間取り組んで来た印刷の仕事を捨てた父の気持ちを考えると、胸が痛む。印刷機械かしている、父の真剣な表情が私は大好きだった。2その仕事に父は、誇りと愛着を持っていた。それを私達家族のために捨てたのだ。自分よりも若い人に仕事を指示され、叱られる父の姿を想像すると、悲しくなる。しかし、そういう父を私は誇りに思う。家族の幸せを一番に選んでくれた父を、大声で皆に自慢したい。それに、父が仕事を変えたせいで、我が家は一家団欒の時間を手に入れたのだ。
最近、父が帰ってくると兄とキャッチボールをしている。今までこんな光景はあまり見た事がなかった。兄の顔を見るととても楽しそうである。見ている私も、思わず笑いが溢れてくる。夕ご飯も家族一緒に食べられる。どうしてなのか、同じおかずでも美味しく感じられる。大きな声で笑いながら食べるからだろうか。
3経済的には決して楽ではないが、一家団欒の時間を持てて本当に良かったと思う。家族の笑顔を見ながら過ごす時間は、私にとって何よりも貴重な時間だ。父の転職を機に家族の絆がいっそう深まったと思う。
私たちが今父にできることは何だろうか。
それは、父が帰ってきたら「お帰りなさい。」と温かく迎え、感謝の気持ちを現していくことだ。私達家族の明るい笑顔や会話で父の疲れた身体を癒してあげられれば嬉しいと思う。
父は今まで私たち家族を支えてくれた。これからは私たち家族が父を支えていく。