初仕事の日、見るも無残な前任者が恨めしげに私をちらりと見る。主人が私の踵に靴ベラを入れながら、「おー、こりゃ履き心地がええぞ」と言う。前任者が少々嫉妬したようだ。両足に私を入れるや否や主人はウオーミングアップもほどほどに、あっという間に表へ飛び出した。
後期高齢者と思えぬ身のこなしである。と思った瞬間、右足の靴先が何かに躓いて、主人は大きく前につんのめる。平素の運動の成果か、「おっとっと」と足を細かに前に繰り出し転倒は免れる。主人は振り返り、躓いた原因なる物を探すが、それらしき物はない。シルバー川柳に「躓いて足元見れば何もない」「躓いて何もない道振り返り」等という句がある。まさに主人の躓きは歩き方が悪いのであるが、主人は私の所為にして靴に文句を言うのである。「良うねえなあ、この靴あー」と言いながら、初めて足を入れた靴の不備を確かめる。ウオーキングの同僚のリュックサックや帽子、歩数計などなどは一度も文句を言われたことはない。ウオーキング歴二十年の主人は、一時は日本ウオーキング協会の指導員を目指して公認のコースを多数歩き、学科講習も受けていたのである。歩き方の基本は踵から着地して親指の付け根あたりでキックする。足腰が弱って来るとつま先が上がらない。つま先から着地するため、躓くのである。自分の足腰の衰えを靴の所為にする主人が憎たらしい。しかし、そこは主従関係の悲しさ、主人の意向を忖度し、出来るだけ主人の歩き方の欠陥は、私の方でサポートしなければならない。
夏のウオーキングで嫌なことは、時折ヘビに遭遇することである。元来、近眼で最近は白内障も進んだ主人はヘビの出現に寸前まで気づかないことがしばしばある。ヘビにいち早く気がついた私は、急ブレーキをかける。それに気がついた主人はヘビとにらみ合う。ヘピ年の主人でもやはりヘビとは相性が悪いらしい。ヘビを避けて遠回りに私の向きを変える。私がヘビを蹴飛ばしでもしようものなら、即お払い箱だ。その日は運よくヘビが道端の雑草の中に逃げ込み事なきを得た。
私のデビュー初日から事件が起きたが、いつ主人が私に愛想をつかせてお払い箱にされるかわからない。が、主人が私を可愛がってくれる限り、主人の健康長寿に尽くしたいと思う。それが私の生きがいである。また、主人の生きがいのひとつでもある老人会の運営に精力的に取り組むことが出来ればこれ以上の喜びはないのである。ところが、ここ二~三日主人は現れない。漏れ聞くところによると検査入院をしたらしい。主人の無事のご帰還を祈るばかりだ。