ダブルベッドの隣で寝ている娘の足が、私の足に乗っているのだ。はずそうとした。だが、やめた。娘の大学受験前夜、新宿のホテルでのことである。
10日ほど前であった。
「いっしょに行けないかなあ?」
娘は、そう言い出した。
「仕事もあるし、行けないよ。1人で行くって言っていただろう」
そう答えてきたが、そのときは、「わかった」と言うが、翌日、また聞いてくる。
明後日が受験日という晩にも聞いてきた。「いっしょに行って欲しいんだけど、どうしても、だめ?」
悲しいような、せっぱ詰まったような、そんな言い方であった。
いずれ、娘と離れて暮らすことになるだろうし、娘と出かけることもなくなるだろう。だから、とも思ったが、有無を言わせない言い方に負けた。
「行くのはいいが、宿は別になるぞ」
「ダブルだから、いっしょに泊まれるよ」
受験日前夜の宿を確保するのが困難であった。なんとかダブルの一室を探し当て、予約していたのだ。そこにいっしょに泊まればいいと娘は言う。
昼過ぎに盛岡を発ち、受験会場を下見して、夕方、宿に入った。
「そんな端に寝なくてもいいよ」
娘の声を背中に聞いて寝たのだった。
中学二年のときに母を亡くした。進学する高校も自分で決めた。
高校に入学して間もなく、学校に行きたくないと言い出した。先生とのトラブルであった。説得して、学校近くまで送って行くが、どうしても車から降りない。学校と交渉もした。あちこちに相談もした。だが、本人の学校へ戻る意思はなかった。
高校への通学は3カ月でやめ、翌年の3月末に退学した。
そのまま就職すると言い始めた。高校だけは出ておいた方が良いと話しても、人は、学歴じゃないと言い張る。
「高校や大学を卒業しても、人間としてだめな人はだめじゃない?」
「それはそうだが…。でもね」
理屈と現実は違うと言っても、受けつけなかった。
けんかにもなった。長いこと口もきかないときもあった。甘やかして育てたのかもしれないと、悔やんだこともあった。
その後、大学入学資格を通信教育で取り、1年間予備校に通って、今日まで来た。私にとって、ここまでたどりついたという安堵感が先にあり、受験結果はあまり気にしていなかった。
(ごくろうさん)
そんな思いで、娘の足をそっとはずした。
翌朝、「これ食べて」と、朝食のデザートを取ってくれた。サービスが良い。受験会場に向かう時も、先に行って切符を買ってくれる。電車に乗ってからも降りる駅が近づくと目で合図をする。
昨日までは、いつも私の後ろについてきていたのだが、今朝は違っていた。
最寄りの駅から試験会場まで、20分ほど歩く。会話もなく、並んで歩いた。
「ここでいいよ。お父さん、仕事があるんでしょ。今からだと、昼までには帰れるよ。ありがとう」娘は受験会場の正門前でそう言うと、小さく手を振った。
声をかけようとしたが、その間もなかった。振り向いたら合図をしようと、キャンパスを進む娘の背を追った。だが、一度も振り返らずに会場に消えた。
娘との距離が広がったそんな気がした。そして、取り残されたような寂しさがあった。
受験がうまくいけば、お互い一人暮らしとなる。距離を感じたのは、娘にはすでに旅立ちの準備ができていたからであろう。自分にはまだ何の準備もできていない。だから、寂しさを感じるのだ。
自分にそう言い聞かせて、先に帰ることにした。
昨夜のことは偶然のことで、娘は気づいていないだろう。しかし、あれも、娘の最後の甘えだったような気がしてならない。
左足に乗った娘の足の感触がよみがえってきた。柔らかいふくらはぎの感触であった。