私の耳は痛かった。だが私は振り向けなかった。滂沱と流れる涙を拭いもせずに、私は歩いた。今振り向いたら声を上げて泣きながら平葉に走り寄って、首に抱きつくだろう。だが今は絶対にしてはならないのだ。お前は旧日本軍の武器として中国軍に引渡されたのだ、どんなに可哀相に思っても。
前足で地面をかく音が次第に小さく遠ざかってゆく、もう再び逢う事のない平葉との別れは、私には生涯忘れる事のない悲痛なわかれであった。
私と愛馬平葉との出会いは昭和十八年十二月一日から始まった。昭和十八年九月一日召集を受けて九月二十五日に北支順徳の黒須連隊に入隊し十二月一日の軍旗祭に黒須連隊長が乗っていられた馬が此の平葉だったのだ。鹿毛の鼻筋にクッキリと白が通った美しくたくましい馬だった。翌十九年一月には黒須連隊は北満へ転出した。残された平葉は歩兵砲中隊の小坂中隊長の乗馬となり、間もなく小坂中隊長も前戦へ転出され、私は根岸中隊長の当番兵となって中隊長の身の廻りから乗馬平葉の世話をするようになった。
此の頃から中隊とは名ばかりの総員百名にも満たない淋しい中隊になっていた。根岸中隊長は歩兵部隊の先任将校に気兼をして、出動の時も徒歩で行き、平葉は何時も廐につながれたままになった。私と平葉とは朝に夕に運動のため営庭で走り、乗り、洗い、食べさせての毎日が始まったのだ。何時の間にか私の姿を見れば喜びの表現を前足でカッカッと地面をかくようになった。刷毛で馬体を磨いてやれば眼を細めて心地よげに鼻を鳴らし、飼葉をやればほんとうに美味そうに全部を平らげて、満足した顔を私に寄せて来た。言葉こそ交す事は出来ないが、心と心は人間同士以上に通じ合う仲になって来た。
戦局は日増しに日本軍に不利になり、治安地区だった石門周辺にも八路軍が頻繁に出没して、我が歩兵砲隊も出動する回数が多くなった。砲馬でない平葉も、その度に砲を曳き弾薬を背に出動した。手綱を持ちいたわりつつ、私は何度も平葉と行動した。そして二十年八月十五日を迎えた。
虚無の日が続いた。来る日も来る日も、明日の運命を重苦しく予想しながら。だが私と平葉の仲は、常と何の変る事もなく睦まじく続いた。そしてついに運命の日を迎えたのである。砲、銃、弾薬、帯刀、軍馬、あらゆる兵器は中国軍隊に引渡されてゆく。平葉の手綱を、中国軍兵の一人に渡した時、私は一瞬、眼の前が真暗になった。
今此の追憶の記を書きながら私の脳裡には平葉との別れの場面がハッキリと画き出されている。カッカッカッと大地をかく音がきこえている。
ポロポロと落ちる涙は止まらない。
冥せよ、平葉……。