とも角、その日から私は、葉鶏頭に住みついたバッタを見守る事になった。そして、さなきだに栄養不良の葉が虫喰いになっていたのは、このバッタが食べていたのだという事にやっと気付いたのである。それからは、そこを通る度にバッタの存在を確かめ、「あゝ居る、居る」と安心した。又時には朝顔の葉蔭でゴソゴソしている事もあるが、別に朝顔の葉を食べているのではなく、そこは只の休憩所のようである。私は一度だけ葉鶏頭を食べている姿に出くわしたが、それは丁度蚕が桑の葉を食べるように、お行儀よく食べていた。その頃はもう籠にこそ入れないけれど半分わが家の一員のように、これも一種の愛情というと大げさかも知れないが、何とも可愛くなってしまって、もし近所のいたずら坊主共に見付かりでもしたらどんな目に遭わされるかも知れないと、その存在をひたすら秘密にしていた。
そして彼此半月も経ったろうか、とうとう羽が身体よりも長くなり、体長は倍以上にもなった。もう立派なおとなである。私はまるで自分が育てたような得意な気分で、その姿を感心し眺め入った。けれど、バッタを見たのは其日が最後で、天辺に貧相な新芽を二枚つけたきりの葉鶏頭に、ゆゝしき食糧難を悟ったのか、それともほやほやの羽で初飛翔を試みたかったのか、それっきり姿を消してしまった。今日で四、五日、私は通る度にもしや、と足を止めてはみるが居はしない。虫というものは、古巣なんか恋しくはないのだなあ、けれど私は大いに淋しいのである。