五年半前、転勤で岡山へ来て県内のある川へ行ったときのことである。
その日はなぜか不漁で、二匹買った囮が何れもぐったりとなって了った。近くで釣っていた老人に、
「分けていただける囮はありませんか?」
と訊ねてみた。
「ああ、少しならありますよ」
と、気持よく応じてくれた。それが機縁で休憩時に石に腰を下して話し合った。老人は、自分はこの近くに住む○○という者であること、囮が必要ならシーズン中は家の池に飼っているのでいつでもご用立てする、ということ、もう四十年近く鮎釣りをしているが、友釣りは奥行きが深くて奥義を極め難いこと、友釣りの話は双方話しだすと際限がない。いつか谷間に暮色が迫って、帰りぎわ二人は同時に囮かんの水を切った。囮かんの中の鮎はバタバタと断末魔の喘ぎを手に訴えた。老人が、
「南無阿弥陀仏…」
と呟いているのが聞こえた。私は一瞬シーンとして頭を垂れた。
次の機会、同じ場所でまたその老人と会った。鮎釣りも既に終期に近かった。今度はこちらが囮を提供することになって、私は前回の借りを返した気になった。私は囮代の受取りを拒んだ。老人は気の毒そうに、
「それじゃ、釣れたらお返ししましょう」
と云った。夕立ちがきて、私は川を引上げた。川梯子を上って道路から歩きながら眺めていると、老人は漸く一匹を釣上げて、私のいた場所を眼で捜しているのが判った。
翌年、同じ場所に入ろうとして、先客が昨年の老人の後姿であることを確かめて、私は声をかけた。
「○○さんですか?」
次の返事で、私は一年ぶりですね、と言おうとする声を呑んだ。
「いえ、○○は死にました」
老人がふり返った。なる程後姿は似ているが、面と顔を合せて別の老人であることに、気付いた。
「○○は昨年交通事故で亡くなりました。私は○○の近くのものです。いい奴でしたが…」
「どうも…」
私はいつの間にか、毎年あの老人に会うことを楽しみにしていた自分に気付いた。
囮に鼻かんを通して、私は静かに糸を垂れた。手がブルブルとふるえているのが、自分で判った―