私がM君に初めて逢ったのは、四年程前だったろうか、M君の映ったテレビの画面だった。
ナレーションが私にM君への興味を与えたのは、私と同じ「作詩」が趣味だということと、「筋ジストロフィ」という聞き慣れない病名だった。私は早速「広辞苑」を引いてみた。―筋ジストロフィ症―筋肉の萎縮と脱力が除々に進行し、歩行や運
動が困難になる疾病、進行性筋萎縮症の一型で 幹上腕大腿の筋群に起る―と誌されていた。
逢ってみたいとM君に手紙を書いた。正直いって返事は期待していなかった。何故ならテレビは、M君は自由にペンを持つことができないといっていたし、事実、画面の中でM君は母親の介護でやっと身体を移動させていたのだから。返事はすぐきた。驚いたことに、紙面を埋めた文字はまるで活字のように整然と並んでいた。後で知ったのだが「レタリングを習っているんです」ということだった。
私は五月のまぶしい陽光の中を、備前市大東のM君宅へ向った。M君はこぼれるような笑顔で私の訪問を歓迎してくれた。初対面にもかかわらず話がはずみ、五時間近くも長居をしてしまったのも、同じ趣味を持つ者同士の気兼ねのなさであったろう。数ヶ月後、久々に届いた葉書には「今ボクは横に寝ころんで書いています。しんどいけど…好きだから、うまいでしょう―エヘン!」昭和五十八年七月二日岡山市民会館で開催された「わたぼうしコンサート」でM君の作詞「あなたも障害者になれます」は選ばれて発表された。私は楽屋へM君を訪ねた。毛布の上に身体を横たえてはいたが、輝く瞳は変っていなかった。
「安本さんはさすがだなあ、詞が二篇も入選するんだもの、でもボクのは曲が付きましたよ」ひかえめなM君の精一杯の自己主張ではなかったろうか。
M君にとって、作詩とは、社会と対話し、人生を語り、自己を研磨する唯一の手段ではなかったか。
自分に与えられた人生を、力一杯、精一杯生き続けたM君。みじかいふれあいだったが、私に生きることの尊さを教えてくれたM君。いま、悲しみの棺を前にして、私は涙を禁じ得ない。しかし涙をぬぐって私は叫ぶ「翔べM君、蒼穹を、心おきなく自由に、この世でできなかったことを、果して欲しい。走れ!翔べ!―さようならM君。」