双眼鏡片手にじっと覗き込むように旗の動きを見詰めていた本日の副指揮でもあり今回の旗振り通信再現の実行委員長でもある関西大学三年生清野君が、「ホンジツノコメソウバハ、三十三エン二十四セン‥‥」と、一字一字大声ではずむように読み上げる。
あらかじめ用意しておいた受信用紙へ通信文を記入しながら、私の胸は青年のように躍った。
無理もない。野越え山越えはるばる百七十キロ離れた大阪堂島発信のこの電文は、途中二十六カ所に設定した中継点を経て、しかも関西ボーイスカウト五十名の若き同志の全面的な支援によって人から人へと伝わり、今現にこうして岡山市京橋の旧岡山電信局跡へ設置した最終受信所へ間違いなく伝えられて来ているのだから。
思えばこの日のために一年近くを人知れず用意した私だったし、一方ボーイスカウト側は休みごとに念入りなリハーサルを高層建築や登るに道なき山の頂で繰り返してきていたのだから、是が非でも私は成功させたかった。
それが新聞、テレビのマスコミ取材陣が朝早くから旭川畔のゴール地点へ押し寄せ、私と清野君の二人を取り巻いて今や遅しとその一刻を待ち構えているというのに、予定の第一回通信の午前十時がかなり過ぎても一向にそれらしき動きがなく、そのうち並行して発信した電電公社経由の正規の電報は発進後二十数分で私の手元に届いたものの、肝心の旗振り通信は全然音沙汰なしというのだから、内心私は気が気でなかった。
念のために最終受信所の責任を私と二人で分担する立場の清野君が携行したトランシーバーで順次照会した結果、思いがけぬ神戸市内から明石方面へかけての濃いスモッグ発生のため見通し困難による遅れと判明、急ぎ対策中との無線連絡で待つことしばし、やっと―本当にやっとの思いで第一信の入手が開始したのだから私の感銘も一入であった。
江戸時代から大正の初期へかけて、大阪堂島の米相場を全国各地へ旗振り通信で伝えた史実についてはかねて承知していたし、岡山県下に残る遺跡についても私なりに発掘を心がけていたのが、機が熟して約七十年振りに全国に先駆けて再現できようとは夢にも思ってみなかったことである。
記者陣の注文にこたえて何度も清野君と握手を交えながら、「嬉しいの一言です。文献では承知していたが、これが再現できたのも多くの人の協力のたまもの。研究者の一人としてありがたいことです。」とただただ繰り返す私だった。