煙は、レストランと寿司店の間に残された一枚の田んぼに、うず高く積まれた籾殻がくすぶり続けて出ているのであった。
十数年前、この村を二分するように広いまっ直ぐな道路ができた。両側の歩道にケヤキが植えられ、その道路は「ケヤキ通り」の名称がついた。すると、田園地帯だった村は、驚くような速さで町になった。とくに、道路沿いの耕地は食べ物の店、コンビニに変った。高層の建物が相次ぎできた。先祖から受け継いだ田畑を、そう簡単に手放すわけにはゆかない、といっていた農家もわずかになってしまった。
かつて、稲の取り入れ時分の日暮れには、どの田んぼからも籾殻を燃やす煙がゆるやかに立ちのぼり流れていた。この季節、村は霧に包まれているかのようであった。そして、夕方遅くまで子供たちの声があった。
そんな情景が思い出されて、私は、漂う煙に目をあずけて佇んだ。
私が小学生のころといえば、昭和二十年代である。当時の農業は、便利な農機具もなく、ほとんど手作業であった。初夏の田植え、秋の取り入れは一家総出でも人手不足。農家でない主婦は頼まれて手伝った。私の母も懇意な家に出かけた。
学校から帰ると私は、母のいる田んぼへ行った。どの家の子もランドセルを置くが早いか、外へ飛び出す。子供たちは声をかけ合って、ひとかたまりになる。年長のヒロシ君が先頭に立って指図する。ヒロシ君の「一番にあそこ」と指す田んぼへ、いっせいに走る。脱穀機を操作するおじさんのところへ、稲束を運ぶ。「こんどは、あっちじゃ」「つぎはこっち」ヒロシ君の声に走り回る。藁が積んであれば、飛び箱がわりにして遊び、喉が渇くと畔に置いてあるやかんのお茶を飲んだ。
陽が落ちると「しまおうや??」とおじさんがいう。その言葉を待っていた子供たちは、終日籾殻がくすぶっている田の隅に集まった。
おばあさんが棒で灰をかきわける。灰の中からほどよく焼けたサツマイモがいくつも出てくる。おばあさんは新聞紙をやぶっては、焼きイモを包んでくれるのだ。私はもらったひとつの焼きイモを半分にして、母と食べながら農道を帰った。息を吹きかけ、冷して食べるとき、籾殻の匂いが漂ってくることがあった。「おいしいなあ」母を見上げていうと、私の肩をぎゅっと引き寄せて、笑って頷いた。
静かになんときかが過ぎていた。
私は幼な友達の声を宙に聞き、誰彼の顔や、走る の動きまで、次つぎ思い返していた。
あれから、半世紀は疾うに過ぎた。