「山王海?」と、そのとき姉と妹は乗り気でない返事をしたが、すぐに出かける支度を始めた。5月の初め、1人で暮らす父のところ(紫波町)に、横浜に住む姉と花巻の妹が集まった。めったに出かけない父を連れて、どこかへ行こうとなったときのことである。
葛丸川に沿って山に入った。
山腹に1、2本、山桜が咲いていた。ほどなく、藍(あい)色の水をたたえた葛丸湖に着いた。そう大きくない湖を迂回(うかい)して再び山中に入る。上の木々はまだ冬からさめていない裸木であった。狭い山道を登り、うねった山道を下ると、山間からダムが見えてきた。傾きかけた日差しが緑色の湖面を照らしている。
車は、低木の枝が覆う狭い道に入り込み、そばまできている水辺を走る。平野では代かきが始まった。満水の水は、これから大量に放出されていくのだろう。
滝名川を堰(せ)き止めて造られたこのダムは、昭和27年に完成した。平成13年に終えた大規模な改修工事で、堤高が24メートルかさ上げされ、堤頂も100メートル伸びた。この工事で総貯水量は4倍にもなったが、このダムを満水にするだけの集水面積がない。そのため、近くの葛丸湖とトンネルで結び、お互いの水を補給し合える親子ダムにした。
「この近くに学校林があってさ、下刈り作業に歩いて来たよ。遠くていやだったなあ」
と姉が言う。学校林とダム工事の見学に来たかすかな記憶が、私にもある。
「囚人が逃げて、大騒ぎにもなったこともあったよね」
と姉が問うが、耳の遠い父に反応はない。工事には多くの受刑者が携わった。ほとんどが模範囚であったようだが、脱走する者もいたという。しばらくして、父が言った。
「馬そりごと谷に落ちて、死んだ人もいる」
私は、小学校で先生から教わり、学芸会でも演じてくれた、「志和の水けんか」を思い出していた。
ここから数キロ下って志和稲荷神社前に出た流れは、そこから東に広がる扇状地を通って北上川に注ぐ。もともと流量の少ない川であったが流域の開発だけは進み、いつの時代も水不足は深刻であった。
水争いは、神社前から北東に延びる最古で最大の堰(せき)、高水寺堰と他の堰との争いであった。神社前はさほどでもないが、少し下ると川幅は急に広くなる。川の中央に中州があり、流れはここから本流方と支流方に別れる。
夜陰にまぎれて誰かがこの堰の流れを変えた。それに怒った一方が、他の堰を止める。小競り合いはしだいに大きくなり、村人は、力ずくで流れを戻そうとする。人を集めに馬が走り、半鐘が鳴る。綿入れを着こみ、蓑(みの)をつけ、鎌(かま)や鳶口(とびぐち)を背にした村人が堰にあふれ、堰をはさんで対峙(たいじ)する。流れを止めた土俵を払いに、数人が川原に下りた。怒号が飛び交い、川原に飛礫(つぶて)が降った。
水争いは毎年のように起き、死者が出ることもしばしばあった。300年も続いた水争いは、このダムが完成して終わる。
わが家は、その本流方の水系にあるのだが、誰からも詳しい話を聞いたことがない。この地域の人にとって、それは思い出したくも、語りたくもないことだったのかもしれない。
山中を1時間も走り、ダムをほぼ1周して堰堤の見渡せる展望所まで来た。
日の陰ってきたダムは、ひっそりとして、水の音さえしない。放水口を覗(のぞ)きこむが、深い底は暗くて見えない。
堰堤の法(のり)面に、「平安」の文字が見える。かつては雑草のなかに埋もれ、崩れかけていたツツジの文字は、広くなった芝面にさらに大きく植え直されていた。
この流域に住む農民が願い続けたもの、それが平安であった。父と姉のそれも、全(すべ)てのつらい過去がこのダムの底に沈んだ。悲願であったその文字は、それを閉じ込め、封印しているように私には思えた。
下流で起こる「水けんか」のざわめきと半鐘の音は、この辺りまで届いたろうか。馬そりごと落ちた谷はどこだろうか。そんなことを考えながら、深い谷に沿った道を下った。姉が遠くていやだったと言った道のりも、車だと4、5分であった。
志和稲荷神社前に出た。
視界が大きく開け、同時に、ため息が出た。
ため息は、山道を運転してきたその緊張が解けたからでもあるが、むしろ、入り込んでしまった山王海の重い過去からやっと抜け出た、それであるような気がした。
太陽は山陰に回ったが、平野はまだ明るい。代かきの終わった水田は空を映して光り、何枚も続いていた。