父の二十三回忌法事の電話連絡を受けた妻が、五十余年前を懐かしんでいた。
彼女に誘われて、先方の皆さんへ挨拶(あいさつ)に出掛けたときのことである。父は古風で頑固な高等学校長、彼女からそう聞かされていた私は、極限まで膨らんだゴム風船みたいに張り詰めた思いで初対面の挨拶を済ませた。
その精神状態が、折り目正しくて瑞々(みずみず)しい印象を与えたのだろう。
家から離れた公園の観桜会に集まった三十人ほどの親類縁者に、「いずれは娘の恭子といっしょになる男性だ」と紹介してくれた。
彼女とは将来を約束していたが、いきなりの結婚承認宣言には面食らった。
拍手と歓声に迎えられて、いつの間にか大集団の宴席に引き込まれていた。「よく来たなあ」と声を掛けながら茶碗(ちゃわん)に酒を勧めてくれる父親から、思っていたよりも物腰の柔らかさが感じられた。言葉を交わしているうちに、通じ合う情念さえ感じていた。
酔いのまわった父親は、相手構わず「我(ワ)に似て、いい男だ」と私を宣伝していたという。
母親も二人の弟も親戚の方々も、心から歓待してくれた。私は快く酔った。
離れた所の舞台からは、豪快な三味線の音や躍動感あふれる津軽民謡が流れていた。ところが、ふとその音が止(や)んで、代わりに尺八の澄んだ音にのったゆったりとした歌が聞こえてきた。津軽山唄である。南部民謡に似た悠長な歌を聞いていると、異郷で知己に会ったような安息感を覚えた。
「こったなさびしい唄、マイネ。津軽の唄ァ、景気いいのに限るよゥ」
突然、父親が声をあげた。語気鋭く断定的な言い方だったから、通じ合う情念に亀裂が生じた思いがした。
翌春、弘前大学教育学部を卒業した私と彼女は、幸いにも同一教育事務所管内の小学校に赴任した。二人の結婚手続きは順調に進められ、その年の十一月に式を挙げた。
一年半後には女児が生まれた。
長女が二歳十か月のとき、二女が生まれた。
その産後休暇を、妻は長女も連れて生家で過ごすことにした。生家までは電車で四十分ほどだったから、休日には私も足を運んだ。
十一月下旬だったから、津軽地方には黒い雲が垂れこめて重苦しい日が続いた。帰宅すると無人の部屋にも重苦しい空気が淀(よど)んでいて、独り暮らしの哀感がこみあげてきた。やわらかい日差しが注ぐ生まれ育った盛岡近郊の陽気な初冬風景が、無性に恋しくなった。
津軽の生活も九年が過ぎ、風土や風習それに言葉にも慣れ親しみつつあった。妻の生家の支援も受けて生活の不安はなく、暮らしぶりに不満はなかった。けれども、望郷の念は消えなかった。重苦しい初冬の独り暮らしに誘発された淡い郷愁だけではなかった。
反対するだろうと思っていた越境移転を、妻が潔く承諾した。義父は、娘を遠くへ送り出すのは忍び難いと渋っていたが、そのうちに了承してくれた。頑固な人にしてはあっけない結着だった。
津軽を去るとき、娘をよろしく頼むと言ってから、義父がつぶやいた。
「津軽の人になると思っていたんだがなあ」
張りのない声を私は黙って聞いていた。
新任地は、北上高地の奥深い所だった。交通の不便なことに妻は眉をひそめたが、振り向かない気質だから愚痴をこぼすことはなかった。私はじょっぱり型の津軽への融和を諦めたが、じょっぱり型の妻をおっとり型の南部に融和させないといけない、私は自分にそう言い聞かせていた。
定年退職後の義父は、家業を長男夫婦に任せて悠々自適の暮らしぶりだった。娘の生活が気になるのか、両親でよく足を運んだ。細やかな心情の集団に溶け込もうとしている娘の姿をみて安心したのだろう。狭い住宅に二、三泊するのだった。異動のことで生じた心の隙間は徐々に埋まった。
八年後に新居を構えた。義父母や義姉夫婦それに私の兄姉などを招いて、ささやかな新宅披露の席を設けた。十人ほどの宴席は、津軽弁と南部弁が入り混じって和やかに進展した。妻も二人の娘も喜々として給仕にはげんでいた。
床の間を背にした義父の温顔を眺めているうちに顔が妙に熱っぽくなり、私は思わず立ち上がった。そして殆(ほとん)ど衝動的に、津軽山唄を歌い始めた。
「ヤァイデャー 十五や 十五や 十五 七が ヤィ……」
座席を見渡すと、顎を引いて納得の表情をみせるこわばった義父の顔が目に入った。気が散るので目を閉じた。すると、ほの暗い空間に山が浮かんだ。それは岩木山なのか岩手山なのか、私にはわからなかった。