やわらかな秋の午後の日ざしの中に、シュウメイギクやハギに交じって草丈一メートルほどに群生している。遠目には茶色に見える暗紅紫色の桑の実のような形の花を枝先につけ、天に向かって咲いている。
車を止めて近寄ってみる。吾亦紅、ワレモコウといい、花びらはなく枝先のものは花穂(かすい)というそうだ。
「俺、この花大好きなんだよな」。夫はワレモコウの群生の中に私を立たせてカメラを向けた。秋の陽を背にした夫は逆光の中にいて、その表情は見えずシルエットだけが眩(まぶ)しかった。
いつも一緒の山歩きで、今まで何回もこの花に出合っているはずなのに、興味なく見過ごし、このとき初めて気になったのはなぜだろうか。秋の虫が鳴き始めていた。
それ以来、ワレモコウという言葉の響きと控えめな花の色と形に惹(ひ)かれて、私にも大好きな花のひとつになった。
夫がクモ膜下出血で倒れたのは定年退職を半年後に控えた九月、山はそろそろ秋に色づくころだった。一カ月以上も生と死の間を行き来し、医師や看護師の懸命の手当てで命だけを取り止めた。症状が落ち着いたと言われたときには心も言葉も失(な)くし、自分で体を動かすことさえできなくなっていた。
長い長い入院生活が始まり、看病のための私の通院の日々が始まった。いくつかの病院を移ったが、どこの病院に行くのにも山の景色が目に入る。岩手山、早池峰山、姫神山、そしてそれらに連なる山々はかつて二人で登った山、しかし、もう決して一緒に行くことはない。朝夕、車から眺める景色は季節毎(ごと)に色を変え、思い出をかき立てる。
寒い大雪の朝、夫は十三年の病床の生活に終止符を打った。
手を振るでもなく別れの言葉もなく、黙って一人、背を向けて行ってしまった。追いかけることもできず、私は呆然(ぼうぜん)とたたずむ。
この別れの前にも夫が元気だったころにはいくつもの分かれ道があった。そしてそこでは必ず私の方で別れて行くはずで、残されるのは私ではなく夫でなければならなかった。
頑健で病気知らず、二日酔い以外に体調不良を知らない夫は、私が偏頭痛や風邪気味を訴えると「気持ちが緩んでいるから風邪もひく」と、思いやりのない言葉を投げつけた。子供たちの病気は全て私のせいにした。
やり切れない思いの中で、決してそうはならないことを知りながら「別れたら…」と想像しては自分の気持ちを紛らわした。
泥酔して帰った夜中の悪態に無性に腹が立ったとき、隣にいても心がすれ違って苛(いら)立ったとき、私は心の中で夫と別れ、置き去りにしてうっ憤を晴らしていた。
好きで好きで一緒になったのに、日々の生活の慣れから時としてお互いのわがままが顔を出す。そして幸せのかけらを見落とす。
小さな諍(いさか)いをくり返しながらそれでも三十年を共に暮らした。子供たちは独立し、夫は静かに定年退職の日を迎えるはずだった。
退職したら二人で日本中を旅しよう。あちこちの山に登ろう、古い大きな木を訪ね歩こう、海辺で並んで座り沈む夕日を見よう。
たくさんの約束をし計画を立てた。
突然の病でなに一つ約束は果たされなかったけれど、心通わず物言えぬこの命、いとおしくいとおしく、ひたすら回復を祈り、動かぬ体をさすり一方通行の言葉をかけ続けた。
そして私はふっと、夫が夫なりのやり方で私を包んでいてくれたことに気付いた。山登りの苦しさは日頃の少々の不満など何でもないことにしてしまうこと、山頂で仰ぐ満天の星空は自分の存在の小ささを思い知らせることなど、山行きで、スキー登山で、ドライブ旅行で、ふり返れば数限りなく私はいたわられ教えられていたのだった。
ワレモコウは夏の終わりから秋彼岸のころにかけて花屋の店先にも並ぶ。単体では見栄えがしないのに他の花に添わせると引き立て役としての力を発揮する。以前、三十本ほどの真紅のバラにこの花を配したとき、お互いが引き立て合ってとても美しい花束ができた。
ワレモコウが咲き、虫の声が聞こえ始めると、思いはすぐにあの秋の日につながる。土蔵はまだ壊れないで立っているだろうか。花たちは咲いているだろうか。あのころには気付かず、私は確かな幸せの中にいたのだ。過ぎて行った時間、走り去った年月は、逆光の中の夫の姿とともに今はもう、ボウッとかすんではるか遠い。
秋彼岸、夫の墓前に菊やリンドウに添えてワレモコウを欠かさない。
心の奥底で虫が鳴く。ワレモコウ、吾亦紅、吾も恋ふ、われも恋う…。