テレビジョンがクレタ島の野生の山羊を映している。雌の角三十センチに対して雄山羊は百五十センチ、ほれぼれとする雄姿ながら警戒心の強さは、かつて純粋種は絶滅にまで追い込まれた苦い歴史のせいであろう、などと解説がつづく。
私がいちばん興味深かったのは、春に二、三頭の出産率が草の多少に比例しているふしぎさであった。秋に交尾して春に産まれる、その春の草のぐあいがどうして彼らにわかるのであろう。彼らは秋に雨が多いと盛んに交尾し、雨が少ないと交尾の回数を自ら制限するのだという。つまり雨がよく降れば春の草萌えも多くて仔山羊の食糧に困らないから「それ産め」ということらしい。
本能とはいえ何という英知。地球という全体が見えないで、食糧と人口の関係なども考えず、専ら自分勝手に生きている人間は大いに山羊に恥じるべきであろう。人間が殖えすぎると食糧を奪い合わねばならぬ。そこにも戦争の因はありそうだ。
日本のどこの都市でもちょっと郊外へ出ると、ヨーロッパ、スイスあたりに来たのかと思わせる家が彩とりどりに展開する。ハイカラな珈琲《コーヒー》ハウス、レストランも妍《けん》を競う。そこへ次々とカーを乗りつける人々。日本人の中流意識も板についてきたものだと思いながら、ふと見る眼下の休耕田。
よく知らないが田を休ませると、それを元へ戻すのに十年はかかると聞いた。だから宅地造成し、だからだからと言っているうちにどッと食糧危機が襲うのではないかしら。
私だってそんなことを思う日もあるのである。
せいぜい八十年生きて、活動期は五十年としよう。それをどう生ききるか。何が生産的で何が非生産的であるのか。考えるまでもなく愚かな自分につき当たる。けれども合理不合理の両立なくしては人は人でなくなるのではあるまいか。けれどもけれどもと、一本の考える葦は生理的にねむくなってしまう。
機械と人間をテーマとした絵を見た。そのとたんに人間はすばらしいと思ってしまった私は、すべてに非がつく生きざまをしていることに気がついた。
かといってどうする。どうしようもないのは「心」というものの存在である。
ここに至ってやっと私はらくになる。人生の無駄こそが生きる証しであるぞよと、いつも自分を騙してきた言葉に頷いてまた一層らくになっていく。あまり考えすぎていると健康によくない。だから「ハーイ」と二つ返事で助手席に乗る。車は緑の風を切り、行先はともだちまかせのランラランである。ちょいとあなた、私はどこへ行くのです?
束の間の倖せなれば啼き交す