四十七歳で素顔になった女性がいる。十八歳ではない四十七という年拾いは、なみなみならぬ苦労を彼女の顔に刻んだ筈だ。
それでもなお彼女は脱いだ。四十七歳の女が素顔で美しくあるためには、どれほどの心の張りと研磨を必要とするか。
はじめ私は彼女を病気かしらと思った。次回は宣言をしたあとだったので「うん、まあね」と感じた。三回四回、会うごとに彼女の頬に天然の赤味がさして来た。「やるわね」。私は彼女の意志に対して拍手した。
けれどもやっぱり、彼女の素顔にいちばんよく似合うのはパジャマであろうと思う。次は浴衣《ゆかた》の素足。ドレスアップに素顔は何としても駄目である。素顔は愛する人のためにのみ、大切にしたい。
女は化粧をしてはじめてくつろぐ。素顔がくつろぐという人もあろうが、私はそうは思わない。家に居ても仕事部屋に居ても化粧をさぼった日は一日中警戒心でいっぱいなのである。不意の客があって向かい合っても何かしら落ちつかない。考えても冴えない。
私など化粧というほどの化粧はしないのだけれど、手順をふんで身じまいをすることで「自信」がつくような気がする。だから「くつろぐ」のだと思う。くつろぎの精神からは大きなものが生み出せそうな気がするのだがどうだろう。
私は常々喪服の人の厚化粧をふしぎに思ってきた。悲嘆のどん底でよくまあ髪をセットしたり「おしろいつけて紅つけて」ができるものだと思ってきた。
でも、それはまちがっていたのだと思うようになった。自分のことを考えてみればよくわかる。顔を洗う、化粧水をパタパタ、クリーム、ファンデーションと馴れた動作を進めていくうちに、鏡の中で心がシャンとなってくるのがわかる。口紅を引いて、さあ!
これは武士が出陣の用意をするのとおなじ心理ではないかと思う。悲しみの中で女が粧《よそお》うのは誰のためでもない、自分のためであったのだ。粧いの手順の中で、自分が果たさねばならない役目、そのためにとり戻さねばならぬ理性を女は持とうとするのである。
そういえば昔、喪主をつとめねばならない妻たる人の素顔を見たことがあった。目はうつろ、髪はざんばら、人々はいたく同情した。もうおわかりだろうと思う。その未亡人のその後の無軌道な暮しぶり。
女は化粧の下にこそ真実を秘めて生きるものだと私は思う。
嫌い抜くために隙なく粧いぬ
洗い髪鬼を迎える雪明り
生きたしと妻は柩に従えり
鏡拭うて何を見ようとする女
洗い髪鬼を迎える雪明り
生きたしと妻は柩に従えり
鏡拭うて何を見ようとする女