蘇軾は豪放磊落な性格で、朝廷の悪弊を直接に批判したので、宮廷の派閥闘争の犠牲となった。彼の後半生は終始度重なる政治的苦難に苦しめられた。43歳から何度も流刑に処され、流刑先は次第に遠く、環境はますます厳しいものになった。苛酷な生涯の中で、蘇軾は中国の儒教・仏教・道教という三つの宗教哲学を融合し、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開くと共に、理想を堅持し美しい物事への追及を堅持することができた。これによって、蘇軾は自らの人格と節操を守り、厳しい外部からの圧力にも耐えることができたのである。
蘇軾は裏表のない人柄で気骨があり、古い観念に捉われることはなかった。こうした人格と心理は、中国の封建時代後期の文人から非常に尊敬されるようになった。いわゆる「東坡模範」は800年余りも中国の流行だった。
蘇軾は非常に才能があり、詩・詞・文のいずれでも偉大な成果を上げた。蘇軾の詩は内容が豊かで、様式は多様である。発想が奇抜で、比喩が新鮮、言葉が高度に形象化されている。蘇軾の詞は独自の形式をもち、詞は男女の愛情を謡うものという古い概念を打ち破り、内容は社会や人生など広い範囲に及んだ。蘇軾は散文でも実力があり、優れた才能があった。唐宋八大家の中では蘇軾の業績が最も大きい。蘇軾は境遇こそ恵まれなかったが、その文章を天下の人々がこぞって模倣した。
蘇軾の散文で最も知られているのは、叙事と紀行である。例えば、前後篇の「赤壁賦」。前篇の「赤壁賦」は、晴れた月夜や澄んだ秋の川を詠い、後篇の「赤壁賦」は山高く月小さく、水落ちて石表れるという冬の景色を詠っている。内容は異なるが、趣向は統一されており、宋代の文章の手本とされる作品である。