杜甫(712-770)は著名な詩人杜審言の孫として生まれた。子供の頃から賢く、勉強熱心だった。家庭の環境がよく、7歳から詩の書き方を覚え、大人になった杜甫は書画・音楽・乗馬・剣舞をすべて習得した。青年時代の杜甫は才気に富み、大きな志を持っていた。19歳 から旅に出て、ロマン溢れる暮らしを送った。ちょうど唐代が最も繁栄していたときで、杜甫は多くの名山や大河を訪れた。「会(かなら)ず当(まさ)に絶頂を凌(しの)ぎ、一覧して衆山を 小とすべし」など世に長く詠われる詩を作った。杜甫は多くの文人と同様官職の道で出世しようとしていた。詩や散文を捧げて権力者におもねり、科挙の試験を受けたが、たびたび失敗に終わった。中年になった杜甫は唐の都・長安で貧しい暮らしを送っていたが、権力者の贅沢な暮らしと貧しい人々の惨めな暮らしぶりを見た杜甫は、「朱門酒肉臭し、路に凍死の骨あり」の句を綴った。官職での失意と暮らしの困窮に苦しめられた杜甫は、統治者の腐敗と民衆の苦難を次第に認識するようになり、憂国の士となった。杜甫は43歳でようやく官職についたが、そのひと月後反乱が起こった。その後も戦乱は止まず、杜甫は各地を浮浪して艱難辛苦を嘗め 尽くした。現実に対して明晰な認識をもつ杜甫は有名な詩文「石壕吏」・「潼関吏」・「新安吏」・「新婚別」・「垂老別」・「無家別」を作り、民衆に対する 同情と戦争に対する憤りを表した。
政治に対して徹底的に失望した杜甫は47歳で官職を辞した。ちょうど長安が旱魃に見舞われた時期で、貧しくて生活が維持できなかった杜甫は家族を連れて西南部の四川・成都に流れ着いた。友人の援助で4年間隠居生活を送った間に書いた「茅屋為秋風所破歌」は家族の貧しい暮らしを描いたもので、自らの経験をもとに天下の貧しい人々の気持ちを詠ったが、それは詩人の高尚な気持ちを体現しているものでもあった。
770年、59歳の杜甫は放浪の途中で死去した。杜甫が書いた1400篇の詩は、唐代の戦乱を表すものが多く、唐代の最盛期から衰退期まで20年間の社会の全貌を記録している。杜甫の詩は形式が多様で、多くの先人の長所を取り入れた上にさらに発展させたもので、内容的にも形式的にも詩歌の分野を大きく切り拓き、後代に広範な影響を及ぼした。