堯帝の時代、川は氾濫し、農作物は浸水被害をうけ、家屋も倒壊した。人々は高い所へ行かざるを得なかった。堯は部落会議を開き、洪水をなんとか治めようと話し合い、鲧に治水を命じた。しかし9年後、鲧は塞ぐという方法で洪水を治めようとしたがこれに失敗したため、堯帝のあとを継いだ舜帝に殺されてしまった。舜帝は鲧の息子である禹に治水を命じた。禹は水路を整備し、川の水を海へ流す方法をとった。禹は庶民と同じように懸命に働いた。自分の家の前を通っても寄ることなく仕事に没頭した。治水の過程で、禹は多くの測量道具と製図方法をあみだした。
30年間の努力を経て、ようやく水を海に流すことに成功した。土地はまた農作物を栽培できるようになった。この治水の功績を讃えるため、禹は後に大禹と呼ばれるようになった。