紀元前221年、政は自らを始皇帝と称し、全国範囲で分封制、すなわち貴族世襲支配を廃止し、郡県制を実施した。また皇帝の直接統治の下、中央から郡県まで官僚機構を設けた。秦の従来の法律法令を基礎に、六国の法律条文を参考にして、統一した法律を制定した。六国貴族を関中、巴蜀に移住させ、その勢力が再び力を持たないようにした。また民間人の武器の所有を禁止し、手に入れた武器は没収し廃棄することを決定した。
経済では農業を重視し、商業を抑制する政策を実行し、封建土地私有制を支援した。紀元前216年に土地私有制度が確立された。戦国時代の商鞅が制定した度量衡を基準とし全国の度量衡制度を統一させた。更に全国の貨幣制度を統一し、全国の水陸交通を発展させた。
文化思想では、秦で使用されていた文字を基に小篆を制定し、全国に広めた。
始皇帝は即位後、蒙恬将軍を派遣し匈奴と戦い、戦国時代の秦、趙、燕3カ国の北部の長城を一つにつなげ、臨洮(今甘肃岷县)から遼寧省東部までの万里の長城を修築した。長城の修築は北方の匈奴の侵入を効果的に防ぐことができ、秦王朝の統治を一層強化し、国境の安定を守ることができた。百越地区を占領した後、桂林、象郡、南海などに郡を置いた。秦の末までにその数は36ヶ所から40ヶ所に拡大された。
紀元前210年7月、始皇帝は病死した。