それから劉邦はもう一つの反秦軍・項羽の軍隊と4年間にわたる楚漢戦争を繰り広げた。紀元前202年、劉邦の軍隊30万人が項羽を包囲し、項羽は自ら命を絶った。紀元前202年、劉邦は山東で帝位につき、漢を建てた。
劉邦が天下を取る過程で、最も危険にさらされたのは鴻門の宴だ。その時、項羽の軍事勢力は劉邦より遥かに強く、項羽は劉邦を殺そうとしていた。劉邦は策士・張良とともに項羽の軍隊の駐屯地・鴻門に入り、項羽に和議を求めるが、宴会前に項羽の策士・範増は項羽に劉邦を殺すよう進言した。この計画を実行するために宴会中に範増は項羽の従弟の項荘に剣舞を命じ、項荘は舞いながらチャンスをうかがい劉邦を殺そうとしたが、この緊迫した状況の中、張良は急いで劉邦の衛兵・樊噲に剣と盾を持たせ軍門の衛士を突き倒して宴会場に突入させた。劉邦は厠へ行くふりをして樊噲に護衛されながら自分の軍に戻った。残った張良は項羽に「沛公は酔ってしまい挨拶が出来なかったので、項王に白壁一対を、範増に玉斗一対を奉ずるように私に命ぜられた」と伝えた。これが歴史に残る有名な鴻門の宴だ。劉邦は逃げた後、大軍を率いて項羽を打ち負かし、漢王朝を建てた。
劉邦は王位についた後、一連の生産回復・発展政策を講じ、また奴隷を釈放し、軍人を除隊させ、賦役を免除した。秦の軍に用いられた功績によって住宅と田地を授ける制度を引き続き実行した。
秦が滅亡した後、中国北方地方の少数民族である匈奴はたびたび漢の辺境に攻めてきた。紀元前200年、劉邦は自ら軍隊を率いて征討したが、匈奴の軍隊30万人に包囲された。幸い危険を脱したがその後、漢は匈奴に和親政策を講じ、双方の関係を緩和させた。
漢高祖12年、劉邦は英布叛乱を征討した際、流れ矢に当たり亡くなった。