(けいあんげんじゅ)
(1427―1508)室町時代の臨済{りんざい}宗聖一{しよういち}派の僧。別号は島陰{とういん}。長門{ながと}(山口県)赤間関の人。9歳で南禅寺雲興庵{うんこうあん}の景蒲玄忻{けいほげんきん}に師事し、おもに京都五山で内外の典籍を学び、宋儒{そうじゆ}の学に長じた。1467年(応仁1)遣明{けんみん}使に従って入明、朱子学などを学んで帰国し、島津氏の招聘{しょうへい}により薩摩{さつま}(鹿児島県)に桂樹庵(島陰寺)を開いて宋学を講じた。81年(文明13)朱子(朱熹{しゆき})の新注を刻した『大学章句』を刊行するなどして、薩南{さつなん}学派の祖となった。また日向{ひゅうが}(宮崎県)安国寺を兼住、さらに建仁寺、南禅寺にも住し、永正{えいしょう}5年6月15日示寂。『島陰漁唱』『島陰雑考』『家法和点』などの著がある。