(さつなんがくは)
戦国末期から近世初期にかけて薩摩{さつま}地方(鹿児島県)に興隆した宋学{そうがく}(朱子学)の一派。この派の祖桂庵玄樹{けいあんげんじゆ}は周防{すおう}(山口県)に生まれ、京都五山に学び、1467年(応仁1)から73年(文明5)まで6年間、中国の明{みん}に渡って簡牘{かんとく}外交(手紙すなわち外交文書の往復を通じての外交)のことに従事するとともに禅と朱子学を学んだ。帰国後、石見{いわみ}(島根県)、肥後(熊本県)菊池氏のもとを経て1478年島津忠昌{ただまさ}の招きで薩摩に移り、禅儒として活躍した。儒においては新注学を講じ、わが国で初めて『大学章句』を刊行した。他方、禅の見性{けんしよう}と程朱{ていしゆ}の心法とを調和して薩摩武士の士風の形成に寄与した。『島陰{しまかげ}集』の著がある。桂庵の死後その流れを引く文之玄昌{ぶんしげんしよう}(1556―1620)が出て禅儒として活躍し、訓点{くんてん}のうえで桂庵の後を受けて文之点を完成した。2人はまた薩摩藩の対明外交を助けている。