(うえすぎのりざね)
(1410―66)室町中期の武将。関東管領{かんれい}。越後{えちご}守護上杉房方{ふさかた}の子。山内{やまのうち}上杉憲基{のりもと}の養子となる。1419年(応永26)伊豆、上野{こうずけ}守護に補任{ぶにん}され、関東管領に就任した。四代将軍足利義持{あしかがよしもち}の死(1428)後、次期将軍を期待していた関東公方{くぼう}足利持氏{もちうじ}が、将軍の後継者となった義教{よしのり}を攻めんとしたとき、憲実はこれを諫止{かんし}した。以後幕府に反抗し続ける持氏をつねに諫{いさ}め、やがて持氏と憲実の間は不穏なものとなった。38年(永享10)持氏による憲実討伐の風聞に、憲実は領国上野へ出奔、幕府の命を受けて翌年持氏を自殺させた。やがて出家し(永享{えいきょう}12年3月以前)伊豆国清寺に籠居{ろうきよ}したが、幕命により俗界に復帰し、一時関東の政務をみた。その後鎌倉を去り諸国行脚{あんぎや}ののち、長門{ながと}(山口県)大寧寺{たいねいじ}で文正{ぶんしょう}元年閏{うるう}2月に没した。下野{しもつけ}(栃木県)の足利学校を再興している。