制服が死ぬほどいやだったのに、また制服に飛びついて、私の信念なんて、じつにいい加減(かげん)なもの。
渋谷のその語学学校に通(かよ)うようになった本当の理由は、とても矛盾(むじゆん)している。その語学学校にも制服があった。赤いタータンチェックのブレザー、ネクタイにハイソックスという、いかにもイギリスかアメリカ風のかわいい制服。それに飛びついてしまっただけのこと。語学の学校ならほかにもいくらだってあったのに。
そこには三ヵ月ほど通ったが、最初からそれほどの意気込みでのぞんだわけではないから、アメリカに行くという計画も、しょせんは十五歳の子どものこと、親と離れるのがこわくなり、だんだんと冷(さ)めてきた。それに、アメリカ風の制服も二ヵ月ほどであきてきたので、語学学校をやめてしまった。
あれほど熱望していた自由なのに、学校に行く必要がなくなると、ほかにやることがなにもない。まるで空虚(くうきよ)そのもの。
校則だらけの学校から解放されたら、いろんなことをいっぱいやろうとはりきっていたのに、情(なさ)けないことに、自分ではやることがなにも見つけられない。友だちはみんな学校に行っているから、学校をやめると、だんだん行き来がなくなる。ふと気づいたら、まわりには友だちが一人もいなくなっていた。
どうせ学校には行かないんだから、いつまで寝ていてもいいようなものだけれど、不思議(ふしぎ)と目が覚(さ)めて、八時にはベッドから出てしまう。
「太陽をばかにするな。太陽があるから、米が育ち、緑が生まれるんだ」
それが父の口癖(くちぐせ)。小さいころから早寝早起きでしつけられたから、身についた習性は、そう簡単には変わらない。そのかわり、夜は十二時には必ず寝ていた。
八時に起きても、なにもやることがない。私もイライラなら、母のイライラも最高潮(さいこうちよう)。ちょっとしたことで、すぐけんかになり、口だけではすまず、お互いに髪を引っ張りあったり、服をひきむしりあったり。母を突き倒したり、殴(なぐ)ったりしたこともある。
まさに家庭内暴力。
母は当然、娘から暴力をふるわれたことを父に言いつける。すっかりずる賢(がしこ)くなっていた私は、父の前ではいい子をよそおう。いくら母が訴(うつた)えても、現場を見ていないから、父は私を叱(しか)れない。
「アンナ、どうしてそんなことをするんだ」
「パパ、私、そんなことやってないよ。ママって、このごろ、ちょっとおかしいんじゃないの」
それでおしまい。自分の言い分を信じてもらえない母は、悔(くや)しさのあまり、ノイローゼがどんどんひどくなっていく。
母はラテン系の血のせいなのか、激(げき)しやすいところがある。
中学三年のときに、こんなことがあった。そのころには、私の部屋に専用の電話があり、友だちと長電話をしていたとき、母が私になにか用を言いつけた。こっちは電話に夢中(むちゆう)だったから、「はいはいはい。わかったわよ」と、母をばかにしたような言葉を返した。
しばらくして、まだ話し中なのに突然、プッと電話が切れた。横を見ると、ハサミを手にした母が恐(おそ)ろしい形相(ぎようそう)で立っていた。私の態度にプッツンし、ハサミで電話線までプッツンさせてしまったのだ。その勢いで、髪の毛までやられそうな雰囲気(ふんいき)だった。
ふつうなら、あとで私が父に叱られるところだけど、このときも反対に母が怒鳴(どな)られた。
「あと先も考えずになんてことするんだ。この電話線、どうするんだ、ママ!」
これには母もそうとう悔しかったのだろう、しばらく泣きわめいていた。
娘に暴力をふるわれただけで大ショックなのに、それを父に信じてもらえないのだから、ふつうの精神状態でいろというほうが無理な話。
母は完全なノイローゼ状態、家にいるとしょっちゅう泣いてはギャーギャーわめくから、私はたまらず、あてもないのに外に飛び出していく。
一人じゃこわくてなにもできないのに……。
中学生のときは、それこそパーティづくし。毎週のように、ディスコ、いまでいえばクラブで大学生が主催(しゆさい)するパーティがあって、そこに友だちと参加していた。渋谷の街(まち)に行けば、そのころ知り合った人たちがいっぱいいる。中にはチーマーとか、不良みたいなのとか、クスリにはまっている女の子もいた。聞けば、クスリで死んじゃった子もいるという。ドラッグを売買しているのまでいた。顔をぼこぼこに腫(は)らした女の子もいた。クスリがらみで、殴る蹴(け)るの暴行を受けたのだという。
そういう人たちとは、こわくてとても一緒に遊ぶ気になれない。かといって、たまに学校時代の友だちに会っても、もうすっかり話題についていけなくなっている。周囲から自分だけ完全に取り残された感じだった。