よし、私は東横学園大倉山(とうよこがくえんおおくらやま)高校に入って、あの制服を着るんだ!
十六歳といえば、一般的にはまだ学校に通(かよ)っている年代。惰性(だせい)で塾通いは続けていたけど、渋谷の街(まち)を歩くたびに、あれほどいやだった女子高生の制服がやたらと気になるようになった。
いい気なもので、とくにハワイから帰ってきたころは、自分もまたああいうのを着てみたいな、なんて思うようになっていた。
「あっ、あれ、いいな」
街を歩いていた女子高生の中に、あれなら自分も着てみたいと思った制服が一つだけあった。当人に声をかけて、どこの学校か聞こうと思ったが、でも、その勇気はなかった。
よく見て覚えておいて、本屋に走った。そのころけっこう売れていた『女子高制服図鑑』なるものがあった。その図鑑をパラパラやって、目に焼きつけていた例の制服と同じものを探し出した。
東横学園。それも二つあって、等々力(とどろき)校と大倉山校。さっそく、受験雑誌で偏差値(へんさち)を調べた。世田谷区の等々力校のほうは、私の偏差値ではお呼びでない。横浜の大倉山校なら、頑張(がんば)ればなんとかなるのではないか——。失礼な話だとは思うけど、受験雑誌によればそんな感じだった。
勉強嫌(ぎら)い、成績最低、おまけに半年のプータロー生活、合格する自信などない。季節はもう秋、十月に入っていた。中学の推薦(すいせん)をもらうのは不可能だし、内申書(ないしんしよ)をよく書いてくれるはずもない。
自分で努力しなければならない。なんとしても翌年の二月に受験して、関門を突破しなければならない。
私は猛然(もうぜん)と勉強をはじめた。午前十時から午後六時まで、それまで通っていた塾で講義を受け、夜は家庭教師に見てもらう。生まれて初めての経験だった。
小学校から中学に進むときにも、いちおう試験があった。それで落ちることはないと聞いていたから、もちろん受験勉強はしていない。そのときの算数の点数が十八点だったことを覚えている。私にしたら、これでもいい点のほう。ほかの科目はもっと悪かったと思う。
十月から二月までの数ヵ月間は、だれからもなにも言われず、まったく自分の意志でやった勉強。動機はちょっと、いや、だいぶ不純だったかもしれないけど、こんなに学校に行きたくなる自分にびっくりしていた。
『制服図鑑』でほかの学校も調べたけど、結局、気に入ったのはそこしかなかったから、東横学園一本ヤリ、ほかの学校はいっさい受験しなかった。落ちたら、またプータロー……。
試験を終えたあとも確かな自信はなかった。
忘れもしない二月二十日。自分で見にいった合格発表の掲示(けいじ)の中に自分の受験番号を見つけたときには、言い知れぬ達成感を味わった。
この合格を一番喜んだのは、私ではなく、母だったかもしれない。うれしければうれしいで、また泣いてばかり。
一年前、高校進学しないと言ったとき、娘の気持ちを尊重(そんちよう)しながらもムッツリしていた父は、このときばかりは笑顔(えがお)で喜んでくれた。