「ああ、いいよ、いいよ、持っていきな」
全国的に見れば、横浜も大きな都会だけど、生まれたときから渋谷の周辺しか知らず、小・中学校があった目白(めじろ)ですら、寂(さび)しいところという印象があった。横浜の中心から離れた東急東横(とうきゆうとうよこ)線の大倉山(おおくらやま)は、とんでもない田舎(いなか)に思えた。
それがいやだったのではなく、私の目にはむしろ新鮮に映(うつ)った。
入学して間もないころ、学校の近くのコンビニエンスストアで買い物をして会計がすんだあと、「あっ、これもお願いします」と、ガムを追加で買おうとしたら、店のおばちゃんが「お金はいいよ」という。
電車通学できるくらいの距離なのに、都心からちょっと離れただけで、人の気持ちはこうも変わるものかとびっくりした。計算が面倒(めんどう)、ということではないはず。いろいろ買ったからおまけしてくれたのかもしれないけど、渋谷なんかでは絶対に考えられない出来事だった。
「あんたを外国人だと思ったんじゃないの」
友だちの言うとおりかもしれないけれど。
私は大倉山がすっかり気に入り、ここなら卒業まで楽しく過ごせそうな気がした。
学校は山の上にあり、かなりの急坂をのぼっていかなければならない。雪が積(つ)もると歩けなくなるから、学校が休みになる。私はこれも気に入った。
学校の環境も、前の学校とは正反対、生徒の中には、ヤンキーもいれば、優等生もいるし、いろいろな人がいて、それが日本の平均的な高校の姿だったと思う。先生と生徒の距離もぐっと近い。
「おい、彼氏とどうだ、うまくいってるか」
先生のほうからそんなふうに声をかけてくれるなんて、清く正しく、男女交際なんてもってのほかという前の学校では、とても考えられないような光景。
父は、私が高校に入っても、時間があるかぎり、お弁当をつくってくれた。それを一時間目が終わったところで食べてしまっても、だれも文句(もんく)を言ったりしない。親が呼び出しをくらうことはない。
父の、いわゆる「辰(たつ)ちゃん弁当」はすぐに評判になって、生徒だけでなく先生までがつまみ食いにくる始末(しまつ)。みんなにとられて、私のぶんが半分になってしまうこともあったけど、かわりに自分たちのを分けてくれるから、おなかがすいて困ることはない。
自分の意志で選び、自分なりに努力して入った学校だから、よけいに心地(ここち)よく感じられたということはあるかもしれないけど、とにかく大倉山は別天地だった。