世(よ)の人はこれを“親バカ”と言うそうだけど。
父は私が表紙になった『JJ』を、二十冊もまとめて買い込んだ。私の一番のファンは、なんといっても、梅宮辰夫(うめみやたつお)。
中ページをやっていれば、次は表紙……。
『JJ』の表紙を飾(かざ)るということは、『JJ』の顔になること。
『JJ』にしろ、ほかの雑誌にしろ、表紙を飾るようになるというのは、並(なみ)たいていのことではない。駆(か)け出しの私なんかには無縁(むえん)の話、もっともっとキャリアを積んでからのことだと思っていた。
表紙をやれたら、そこでいったん『JJ』のモデルをやめてみようと考えていた。人間の欲ははてしがない。さらに続けていたら、自分がどんどん欲のかたまりになってしまうようで、それがこわかったし、ほかのことにも挑戦してみたかった。
この世界に入ってしばらくすると、ただキャリアを積(つ)んだから表紙をやれるというものでもないことがわかってきた。世の中のトレンドとニーズ、それに運が大きくからんでくる。
私が駆け出しのころ、目の前にはブレンダさんというトップスターがいた。メイクルームに入っても、スタッフはブレンダさんにかかりっきり。こちらにはかまってもくれない。私が一ポーズのところ、ブレンダさんは三ポーズ。そんなブレンダさんがうらやましくて、私も早くああなりたいと願っていた。
私のところに表紙の話がきたのは、意外と早かった。初めて『JJ』に登場してから、一年もたたないうちのことだった。
表紙の撮影(さつえい)が終わったときには、やめようなんて気持ちはどこへやら。こわいもの知らずというか、さらにトップを目指す欲のかたまりになって、結果的に、無我夢中(むがむちゆう)で五年間を突っ走ることになった。
自分でも精いっぱい頑張(がんば)ったつもり。ときには、私のセンスとはあわず、着たくない服もあった。それを着こなして、いかにかっこよく見せるかがモデルの才能、腕の見せどころと、自分なりに工夫(くふう)もした。
雑誌の中で自分が着た服がよく売れたというニュースは、なによりの喜びだった。それにつれて、雑誌モデルとしての自信もついていった。
少し先の話になるけど、二十三歳ごろ、まさに私が乗りに乗っていた一九九五年、『JJ』の売り上げも、空前の九十五万部を記録した。