大岡先生が、トットを呼び止めた。トットが五食に行こうと歩いていたNHKの廊下《ろうか》だった。
「トットさま!」と大岡先生はいった。
大岡先生は、自分の気に入ってる人には、どんな若い人にも、「さま」をつけて呼ぶことにしているようだった。後に里見京子さんになった鈴木|崇予《みつよ》さんのことも、「ソーヨさま」と呼んでいた。大岡先生によると、「崇予《みつよ》」より、この字は、「ソーヨ」と呼ぶほうが、いいのだそうで、勝手に変えてしまった。こういうところが大岡先生の面白《おもしろ》いとこだった。
「トットさま!」大岡先生は、いつもの体を半身にした横ばい状態で歩いて近づいて来た。そして、手で口をかくす、例のしゃべりかたで、こういった。
「あなた、ご自分が、なぜ、採用されたか、御存知?」
「えー?!」トットは大声を出した。
「そんなこと、知りません!」
トットは、もし、何か理由があるなら、ぜひ、知りたいと思った。大岡先生は、うれしそうに、「ホ、ホ、ホ」と笑ってから、いった。
「あなたの試験のお点、とても悪かったんですの。だけど、試験官の先生方がね、�これだけ、なんにも演劇について知らないと、逆に白紙みたいなもので、テレビジョンという、全く新らしい分野の仕事を、素直《すなお》に、雑念なく吸収するかも知れない。つまり、吸い取り紙ね。全く演劇の手垢《てあか》のついてない子を、一人くらい採《と》って、テレビジョンと一緒《いつしよ》に始めてみましょう�って、そういうことだったんですよ」大岡先生の、丸い眼鏡の奥《おく》の目は、いたずらっ子のようだった。先生は、続けて、いった。
「つまり、あなたは、無色透明! そこが、よかったんですよ、トットさま!」
それだけいうと、大岡先生は、これも、いつものことで、どこかに突然《とつぜん》、消えてしまった。
「無色透明……」
トットは、ぼんやりと考えていた。才能があるらしいとか、顔がいい、とかで採用されたとは思っていなかったけど、少なくとも、もう少し、演劇的な理由だと思っていた。でもまた、大岡先生が、わざわざ、それを自分にいう、ということは、そう悪いことでもないのかしら? とも考えた。
無色透明。六千人の中から、トットが残されたわけが、これだったとは!
でも、トットには、やっぱり、どう考えても、自分が、それで採用されたのだ、と思いたくないものが、どこかにあった。もしかすると、本当は、とても、有難《ありがた》いことであったかも、わからないのに。