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トットチャンネル(29)

时间: 2018-05-30    进入日语论坛
核心提示:タップ・ダンサー 荻野幸久先生が、トットにいった。「NHKの授業の他《ほか》に、僕《ぼく》のスタジオに来て、個人レッスン
(单词翻译:双击或拖选)
タップ・ダンサー
 
 荻野幸久先生が、トットにいった。
「NHKの授業の他《ほか》に、僕《ぼく》のスタジオに来て、個人レッスンを受けてくれませんか?」
 荻野先生は、トットをタップ・ダンサーにしたい、と決めたようだった。それには、NHKのダンスの時間割だけでは、とても足りないので、授業が終ったあと、教えたいが、という有難《ありがた》い申し出だった。しかも、月謝は、タダでいいから、と、先生は、つけ加えた。
 トットにしても、実は心の中で、タップ・ダンサーに憧《あこが》れていた。というのも、丁度、その頃《ころ》、音楽や踊《おど》り入りのアメリカ映画が、洪水《こうずい》のように日本に輸入され、公開されていた。ドリス・デイの「二人でお茶を」、セシル・B・デミル監督《かんとく》の「地上最大のショウ」、ダニー・ケイの「虹《にじ》を掴《つか》む男」、フレッド・アステアとジュディー・ガーランドの「イースター・パレード」、ベティー・ハットンの「アニーよ銃《じゆう》をとれ」、ジュディー・ガーランドの「オズの魔法使《まほうつかい》」、ジェームズ・スチュワートの「グレン・ミラー物語」……。中でも、ジーン・ケリーの「雨に唄《うた》えば」と「錨《いかり》を上げて」の中のタップ・ダンスのシーンは、それまでトットが見たことのない種類のエンターテイメントだった。あんな軽やかに、しかも、リズミカルに、靴《くつ》のつま先と、かかとにつけた金具で、音が出せるものか……。トットは信じられない思いで、画面に見入った。女性のタップ、アメリカNo1は、長い脚《あし》の、アン・ミラーだった。これより前の時代だと、アステアと、エレノア・パウエルという、神業《かみわざ》のようなタップの名手のコンビがいるのだけれど、トットには、ジーン・ケリーと、アン・ミラーだった。小学生の時の学校の方針で、特別のリズム教育を受けて来たトットには、�体のリズムを音に出せる�ということが、たまらなく魅力《みりよく》的に思えた。自分が、なれるかどうかは別問題として、「ああいう人になりたい!」と、すぐ呑気《のんき》に思いつくトットにとって、タップ・ダンスは、輝《かがや》くような職業に見えた。
 そんな時に、この荻野先生の申し入れがあったのだから、トットは、ちょっと考えて、すぐ返事をした。
「そうさせて頂きます」
 先生との相談で、週に三日、通うことにした。
 ところが、荻野先生のスタジオは、埼玉《さいたま》県の蕨《わらび》にあった。夕方、五時に授業が終ってから満員の電車で行くと、スタジオに着くのは、もう七時近くになっていた。
 当時の蕨は舗装《ほそう》してなくて、雨が降ると、もう地面は、あっちこっち、ぬかるみと水たまりで、頭のてっぺんまで、はね[#「はね」に傍点]が上る、という有様だった。しかも、先生のスタジオは、駅から、かなり歩きでがあった。トットは、ぬかるみで、すべったり、傘《かさ》をとばされたりしながら、あの、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」と、この状況《じようきよう》には、かなりの、ひらきがあるな、と、少しがっかりしながら、それでも、熱心に通った。
 荻野先生は、日本のタップ・ダンスの第一人者として、日劇を一杯《いつぱい》にし続けた、というだけでなく、まだ、日本にタップ・ダンスの基本というものがない時代から、アステアの映画を見て研究し、創作し、独学に近く、タップ・ダンサーになった人だった。
 アステアの映画が封切《ふうき》られると、先生は、毎日、朝、映画館の開館と同時に、おにぎりを持って入り、最後の回の「END」のタイトルが消えるまで、見続けた。そして、タップというものは、いくつかの基本ステップが組み合わされたものである、ということをアステアの踊りの中から見つけ、分析《ぶんせき》し、それに自分流のステップも混ぜて、遂《つい》に、オギノ式(?!)タップの基本ステップを確立させたのだった。日劇での教え子も入れると、お弟子《でし》さんの数は、数え切れない、という話だった。でも、蕨の稽古場《けいこば》は、たいがい個人レッスンなので静かだった。
 タップ・ダンスは、靴のつまさきの金具で、床を軽く「蹴《け》る」というか、「叩《たた》いて」すぐ「止《と》める」というのが根本のようだった。このとき、あの独特の音が出る。どんなに細かく叩いても、いちいち、止める。「空中に体が浮《う》いているほど、いい音が出る!」と荻野先生は、いった。そして大切なのが、リズム。それにしても、あの、いり組んだステップを憶《おぼ》えることが、最も難かしかった。これは、紙に書いたり出来ない複雑なものなので、先生が、あるステップを見せて下さると、いかに、それを早く、口三味線《くちじやみせん》のように、自分自身の音にして、憶えるかに、かかっていた。
「チリタン、タチリタ、チリタチリチタ」
 まるで邦楽《ほうがく》のようだけど、これを分解すると、「右足で蹴って止める。左足で蹴って止める。もう一度、右足で蹴って止めて、もとにもどすと同時に、左足で蹴って止めて、もとにもどす一|拍前《ぱくまえ》に、右足を前に出して、かかとも一緒《いつしよ》に止める」となる。これは、「チリタン」でも「パタタン」でも「ウンパパ」でも、自己流でかまわなかった。なんでもいいから、この「チリタン」で読んだステップを、自分の足に、一刻も早く憶えさせるのが、次の仕事だった。長い振《ふ》り付けになると、「チリタン」や「パラララン」や「ウンパッパ」や、「とんで、とんで、パタタン、止まって、パパパパン!」などの声で、稽古場は、修羅場《しゆらば》のようになった。それに、手の振りがつき、首の振りがつき、最後に音楽に合わせる、という、はっきり言って、気が狂《くる》いそうなのが、タップ・ダンスだった。
(なんでもそうだけど、楽しそうに見えるものほど、本当は裏が大変なんだ)と、トットは今更《いまさら》のように思った。
 バレエ・ダンスの練習靴で稽古していたトットは、ある日、先生から、黒くてリボンのついてるタップ・シューズを頂いた。新品ではなかったし、少し足より大きかったけど、練習靴のゴム底のペタペタ、というのと違《ちが》って、踊ると、ジーン・ケリーや、アン・ミラーと共通の音がした。トットは、うれしくて、夜は枕元《まくらもと》に置いて寝《ね》た。
 その頃、ラーメンが流行のきざしを見せていて、一杯、三十五円か四十円だった。夜、レッスンが終ると、荻野先生は、中学一年の息子《むすこ》さんを連れて、蕨の駅まで、トットを送ってくれ、よく、ラーメンを御馳走《ごちそう》して下さった。奥《おく》さまと離婚《りこん》して、息子さんを男手で育ててる先生にとって、そんな風に、子供と外食することも必要だったのかも知れない。奥さまだった人は、日本人ばなれしたプロポーションと美貌《びぼう》で、男の人達《ひとたち》を魅了《みりよう》した、日劇最初のスター、銀暁美《しろがねあけみ》だった。荻野先生と、銀さんの二人のコンビの踊りは、みんなが溜息《ためいき》をつくものだった、という。残念なことに、とにかく、トットが通ってる頃、お二人は、もう別れていた。
 寒い日は、ラーメンが特に、おいしかった。たべながら、先生は、タップの金具というものが、まだ日本になかった頃、どうやって、踊ったか、というと、「アルミニュームのお鍋《なべ》、あれを、靴の底の形に切って、それを釘《くぎ》で靴にうちつけて踊ったんだから。お鍋だよ!」などという、珍《めず》らしい話を、早口の東京弁で、面白《おもしろ》く話してくれた。
 また、荻野先生が、タップのパイオニアであるように、荻野先生のお母さまが、翠川《みどりかわ》秋子という、NHKの初代の女性アナウンサーだった、という事を知ったのも、驚《おどろ》きだった。
 大正時代、小学校の低学年だった荻野先生は、鉱石ラジオという、レシーバーを片方の耳に、くっつけて聞くラジオで、お母様の放送を、聞いた。「母の声をよくキャッチ出来たときは、うれしかった」と懐《なつ》かしそうに話した。まだ、真空管も、ラッパもないラジオの頃だったから、ラジオといっても、大勢で一緒に聞くことは出来なかった。みんなで聞けるアメリカ製のラジオは、その頃、一台、千円もした。千円というのは、当時、家が一|軒《けん》、買える値段だった。だから、子供たちは、いいことを考えた。一つの鉱石ラジオのレシーバーの上に、ドンブリをかぶせ、そこに、三、四人の子供たちが耳をくっつけて一緒に聞いたものだった……というような、思い出話も、出た。そういうときの先生は、やさしくて、若々しく、楽しかった。でも、スタジオでの稽古は、きびしくて、皮肉たっぷりで、容赦《ようしや》がなかった。これは、NHKの授業のときも同じだった。それでも、トットは頑張《がんば》った。足の親指の爪《つめ》が変色し、特に左のほうは、爪の中が、虫がくったように、ボロボロになってきた。足の全部の指の、曲がるところには、タコが出来た。このレッスンは、トットがNHKと専属|契約《けいやく》を結ぶまで、続いた。荻野先生は、終始、最高の、プロになるためのレッスンを続けてくれた。残念なことに、タップ・ダンサーになる前に、女優としての仕事が多くなって、結局、夢《ゆめ》は消えることになってしまった。
 そして、実際のところ、そのまま続けても、アン・ミラーには、到底《とうてい》なれなかったに決まっていた。トットの唯一《ゆいいつ》の、いいところは、どんなに足が内股《うちまた》になっていようと、振りつけを間違えていようと、顔の表情だけは、ニッコリしてる、という点だけ。ダンサーになれない決定的なとこは、その日、どんなによく出来ても、一晩寝ると、前の日やった振りつけを、全部、忘れちゃってる、という、トット自身にもわからない不思議な特技のせいで。
 でも、先生への感謝と、ジーン・ケリー、アン・ミラーへの憧れは、消えることは、なかった。それにしても……と、トットは考えた。
(この間まで、オペラ歌手になろうとしてた私が、もう、タップ・ダンサーになろうとしてた。これから、一体、いくつくらいのものに、私は、�なろう�とするのかしら……。お母さんにも、ならなきゃ、ならないんだし……)
 トットがタップに熱中してる間、同期生の中にも、突然《とつぜん》、ピアノを始めた人、日本|舞踊《ぶよう》の名取りになろうとする人、朗読に熱中する人、反対に「いまなら、止《や》められる。自分は違う道へ進んだほうが、いいのではないか……」と悩《なや》む人など、いろいろいた。ウロウロしてるのが、自分だけじゃない、と知ると、トットも、少しは、安心するのだった。
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