テレビでは、役がついていない、いわゆる通行人、といった出演者を、「仕出し」とか「エキストラ」と呼んでいる。ラジオでは、そういう人達《ひとたち》を、「ガヤガヤ」とか「その他大勢」とかいった。テレビでは、そういう人達を斡旋《あつせん》するプロダクションの人を「仕出し屋さん」と呼んでいた。ふつう「仕出し屋さん」というと、お弁当なんかを作って届ける商売をいうのかと思うけど、ここでは、そうではなかった。そして、今日、トットは、一人の仕出しの人のために、涙《なみだ》を流したのだった。
その人は、お爺《じい》さんだった。
今日のドラマは、サラリーマンの話で、トットの役は、OL。同僚《どうりよう》たちと、会社の帰りに、一寸《ちよつと》した飲み屋に寄って、みんなでワァワァやったりする、というシーンでの出来ごとだった。トット達は、一応、役があるので、カメラの撮《と》りやすい位置のテーブルに座《すわ》って、セリフのやりとりをする。飲み屋さんには、いろんなお客が来ているので、仕出し屋さんの出番になるのだった。ディレクターの、だいたいの意向を聞くと、どこのテーブルに、どんなタイプで、どのくらいの年齢《ねんれい》の人を座らせるかは、仕出し屋さんのマネージャーの仕事だった。
このマネージャーは、まるで工事現場の監督《かんとく》さんみたいに、皮のジャンパーを着て、声の馬鹿《ばか》に大きい人だった。体も頑丈《がんじよう》そうで、赤ら顔だった。年は三十五|歳《さい》くらいだけど、仕出しの人達には、威圧《いあつ》的にものを言った。トットは、その人が、仕出しの人達に、「あんた、ここに座って!」とか、「ほら、あんたは、ここだよ!」とか、どなるようにいうのを聞くと、こわくて、ドキドキした。そして、この人は、仕出しの人には威張って命令するんだけど、一応、形がつくと、突然《とつぜん》、目を細め、卑屈《ひくつ》な笑い顔になって、自分より年の若いディレクターに、「こんなもんで、いいでしょうかねえ?」と、いうのだった。
そして、リハーサルが始まった。トットも通行人の経験があるから、そして、しょっちゅう、降ろされていたから、よくわかるのだけれど、こういう、一見、なんでもない飲み屋のシーンの仕出し、というのは難かしいものだった。役のある人達の邪魔《じやま》にならないように、適当に賑《にぎ》やかに盛《も》りあげる必要があった。時には、ディレクターの注文で、役のある人のセリフを聞いていて、きっかけのセリフのところで、
「お姉さん、ビール、もう一本!」とか、
「おばさん、お勘定《かんじよう》!」
とか叫《さけ》んだりもしなくちゃならなかった。
今日の飲み屋さんでは、トットの、斜《なな》め後ろのテーブルに、お爺さんが二人、向い合せに座った。そのうちの一人が、トットは、とても気になった。どうしてかというと、その人は、トットの小学校の小林校長先生に、そっくりだったからだった。年恰好《としかつこう》も、背恰好も、ほとんど同じだった。ずんぐりした体つきで、頭のてっぺんが、はげていて、歯が抜《ぬ》けていた。トットの校長先生は、いつも、黒のヨレヨレの三つ揃《ぞろ》いを着ていたけど、そのお爺さんも、NHKの衣裳《いしよう》のグレーの、安物の三つ揃いを着ていた。トットは懐《なつ》かしい思いで、そのお爺さんを見ていた。
当時、カメラに、あまり、はっきり写らない仕出しの人達のテーブルの上には、食べられるものは、出なかった。お皿《さら》や、小鉢《こばち》は出るけれど、小鉢の中は、ナマのお大根の切ったのだとか、せいぜいオタクワン。お皿の上は、お魚でも、わざわざ、骨や皮をバラバラにして、食べ散らかした形に、小道具さんが作って出していた。日本酒は、お水で、ビールは、お茶だった。ところが、今日は、なんの風の吹《ふ》きまわしか、冷ややっこだの、焼き魚だのが、そういう仕出しの人達のテーブルにも出た。トットが見ていると、そのお爺さんは、背中を丸めて、その魚を見ると、小声で、自分の前に座っている、もう一人のお爺さんに、
「これ、食べても、いいのかねえ?」
と、いった。いかにも、うれしそうだった。トットは、なんだか悲しくなった。トットだって、たまに本物のケーキなんか出ると、「ワァ!」とかいって、リハーサルの時から食べちゃって、「本番用のが、もう、ありません!」と叱《しか》られる時だってあった。でも、トットは、なんだか、校長先生に、そっくりのお爺さんが、あまり、おいしそうでもない焼き魚を、いかにも、うれしそうに、ジロジロ眺《なが》めているのを、見たくなかった。
とにかく、カメラ・リハーサルが始まった。このお爺さんは、もう一人のお爺さんと、飲んだり、話したりという芝居《しばい》を、続けていて、ここのシーンの最後のほうの、トットのセリフのきっかけで立ち上る。そして、
「じゃ、また来るよ」
といって、この店の常連らしい感じで、出て行く、ということになっていた。トット達は、それぞれ、長いセリフがあり、丁丁発止《ちようちようはつし》と受け渡《わた》し、若者らしく笑ったりしながら、最後のほうになった。お爺さんが立ち上る、きっかけになるセリフを、トットは、いった。当然、お爺さんは、立ち上るはずだった。ところが、お爺さんは立ち上らない。カメラのそばに立っていたF・Dさんが、いった。
「一寸、すいません、そこの人、きっかけですから……」
トットは、振《ふ》り返って、お爺さんを見た。お爺さんは、お猪口《ちよこ》を片手に持って、焼き魚を、一生懸命《いつしようけんめい》、食べているところだった。F・Dさんの声も耳に入らないようだった。お猪口の中味は、勿論《もちろん》、水だった。トットは、(どうしよう?)と思った。失礼だけど、そっとお爺さんに、「ここで、お立ちになるんじゃないですか?」と、いおうかしら……。ところが、それより早く、あの皮ジャンパーのマネージャーが飛んで来ると、大声で、
「あんた、なに、ぼんやりしてるんだよ! ここで、立ち上って出て行くんだろ?!」
と、怒鳴《どな》った。お爺さんは、その声に顔を上げた。そして、スタジオ中の人が、自分を見ていることに気づくと、お爺さんの顔は紅《あか》くなった。そして、お魚を食べていたお箸《はし》を置くと、いそいで立ち上り、片手をあげて、
「じゃ……」
と、いおうとしたけれど、興奮したせいか、そのあとのセリフが出て来なかった。しかも、あわてたためか、お銚子《ちようし》を倒《たお》したので、ガチャン! と音がして、中の水が、テーブルの上に、こぼれた。マネージャーは、また怒鳴った。
「何してんだよ!」
お爺さんは、片手をあげたままの形で、ヨロヨロと、のれんをかきわけて、出て行った。マネージャーは、腰《こし》をかがめると、F・Dさんに、
「すいません、よく言いますから!」
といった。第一回目のカメラ・リハーサルは終った。そして、手直しがあってから、二回目のカメラ・リハーサルになった。飲み屋のシーンになると、トットは、気が気じゃなかった。お爺さんは、さっきより、もっと背中を丸めて、座っていた。オドオドしてるようにも、見えた。もう焼き魚は、ほとんど残っていなかった。トットは、校長先生と一緒《いつしよ》に、お弁当を食べた時の事を思い出した。あの時は、楽しかった。いつもいつも、みんな笑いながら、お弁当を食べた。校長先生と食べるお弁当の時間は、待ち遠しかった。戦争中で、ほとんど食べるものが無かったけど、それでも、誰《だれ》も、卑《いや》しくは、なかったし、みんなが、お互《たが》いに、やさしかった。怒鳴る人も、卑屈な人も、いなかった。トットは、悲しくなってくる気持を押《おさ》えて、元気にセリフをいった。いいながらも、(お爺さん、きっかけ大丈夫《だいじようぶ》かしら?)と、心配だった。もう一寸で、きっかけ、という時、ガタンと音がして、お爺さんが立ち上る気配がした。トットは、ハッ! とした。(お爺さん、そこじゃないの! まだ早いのよ、待ってて!)トットは、大急ぎでセリフを言った。でも、お爺さんは、きっかけより早く、モゴモゴと不鮮明《ふせんめい》に、
「じゃ……また……来るよ」
といって、歩き出してしまった。途端《とたん》にF・Dさんが、叫んだ。
「すいません、きっかけが違《ちが》います!」
お爺さんは、混乱した顔になって、もどって来た。そして、「すいません、すいません」と、頭を下げた。そして、トットにも、頭を下げると、
「すいません」
と、いった。トットは、出来るだけ安心させるように笑って、
「大丈夫ですよ」
と、いった。お爺さんは、靴《くつ》をひきずるようにして、椅子《いす》にもどると、座った。トットは、大きい声で、F・Dさんに、
「私のきっかけのセリフの、少し前から言いますから。いいですか?」
と頼《たの》んだ。F・Dさんは、インカム(耳につけたレシーバー)で、上の副調整室のディレクターに、
「じゃ、そこからで、いいですね?」といい、
「五、四、三、二、一」と叫んで、キューを出した。トットは、お爺さんに、わかるように、ゆっくりと、セリフを、いった。特に、きっかけの時は、(ここですよ)という風に、大きめの声でいいながら、(うまく立ってくれますように!)と、祈《いの》るような気持だった。
ところが、お爺さんは、立ち上らなかった。間《ま》が出来た。スタジオの中がシーンとした。トットは、振り返る勇気が、なかった。でも、(どうしたのかしら?……)と、やっぱり、振り返って見た。お爺さんは、だまって、座っていた。もう一人のお爺さんが、小声で、
「立つんだよ、早く! 早く!」
と、いっていた。お爺さんは、何も芝居をしないで、だまって座っていた。茫然《ぼうぜん》としているようにも見えた。間髪《かんはつ》を入れずに、マネージャーが走って来た。そして、さっきより、もっと怒鳴った。
「あんた! もう、いい! 駄目《だめ》なんだよ、もう。帰んなさいよ! みんなに迷惑《めいわく》かけて!」
そして、マネージャーは、離《はな》れた別のテーブルに座っていた若い仕出しの男の人を、引っぱって来ると、まだ座っているお爺さんを、ひきずり上げるように立たせ、そこに、若い男の人を、座らせた。お爺さんは、されるままになって、だまって立っていた。
トットは、胸が痛くなった。(校長先生に似ていなかったら、こんなに悲しくは、なかったかも知れない……)校長先生は、トットにとって、誰よりも尊敬する人だった。人間は、どんな人でも、生まれた時、素晴《すばら》しい性質と、才能を持っているんだ、と教えてくれた人だった。普通《ふつう》の小学校を一年生で退学になったトットの話を聞いてくれ、
「君は、本当は[#「本当は」に傍点]、いい子なんだよ」
と、いい続けてくれた人だった。
校長先生に似たお爺さんは、マネージャーに邪慳《じやけん》に、突《つ》きとばされるようにして、飲み屋を出て行った。トットは、若い男の人の前の、さっきのままになってる焼き魚の、お皿を見た。
「これ、食べても、いいのかねえ?」
と、うれしそうに言った顔が浮《う》かんだ。「すいません、すいません」と、頭を下げたときの、不安な目を思い出した。突然、涙が止まらなくなった。それは、誰にも、誰にも、わかってもらえない涙だった。(あの人が、私の好きだった校長先生に似ていたから……)そんな理由で泣くなんて、と、みんなは笑うに決まっていた。トットは、みんなにわからないように、涙を拭《ふ》いた。若い男の人は、いっぺんで、きっかけを憶《おぼ》え、リハーサルは、スムースにいった。
本番が終って、トットが衣裳部屋に、自分の衣裳をぬぎに行ったら、あのお爺さんが、ぬいで行った三つ揃いが、畳《たたみ》の上に、たたんで、置いてあった。トットは、それを見ると、また悲しくなって、子供みたいに、泣きじゃくった。なんで、こんなに悲しいのかと、自分でも、あきれる程《ほど》、トットは、衣裳部屋の隅《すみ》で、いつまでも、泣いていた。
そして、トットは、このとき、自分の涙が、「老い」を、いたむためなのだとは、まだ、わかっていなかった。