第一次で終るのかと思ったら、それは、とんでもないことで、次々と試験があることがわかった。でも、第一次が受かった、ということは、希望を持てたということでもあった。発表から三日後、今日は筆記試験だった。
芝居《しばい》に関係のあることはダメでも、筆記試験なら。トットは、鉛筆《えんぴつ》をよくけずり、消しゴムもちゃんとあることを確認《かくにん》し、筆箱《ふでばこ》をカタカタいわせて、NHKに着いた。
ところが、NHKは、この間にくらべて、シーンとしていて、若い受験生らしい姿は、見あたらなかった。
(あーら、みんな落ちちゃったのかしら)
呑気《のんき》な足どりで、トットは受付の女の人に聞いた。
「今日の筆記試験の部屋、どこですか?」
その受付の女の人は、トットの顔を見ると、隣《とな》りの同僚《どうりよう》の女の人に聞いた。
「筆記試験って、今日、ありましたっけ?」
トットは、ドキッ!! として、何か悪い予感がした。聞かれた女の人は、どこかに電話をした。それから、電話を置くと、いった。
「今日の試験、ここじゃ、ありませんよ」
(ここじゃない?)トットは、とび上った。
「じゃ、どこですか?」頭の中が、ガーンとした。受付の女の人は気の毒そうにいった。
「お茶の水の、明治大学の階段教室です」
このとき、トットの頭に浮《う》かんだこと、それは、小さいときから、面倒《めんどう》なことを一切《いつさい》いわないママが、これだけは、くり返して、トットにいってたことだった。
「学校から、どっかに出かける時とか、いつもと違《ちが》うことがある時は、必ず、先生のおっしゃることを、よく聞いて、紙に書いて、ママに渡《わた》して頂《ちよう》だい」
(こういうことがある、と、ママは前からわかっていたのかしら。いいつけを守っとけばよかった)いまさら、そんなことを後悔《こうかい》しても遅《おそ》かった。第一次の発表のとき、ちゃんと、場所を見て帰るべきだった。明治大学がどこなのか、お茶の水が、どこなのかも、わからなかった。トットは、誰《だれ》のせいにも出来ない、なさけない気持で駅にむかった。(今から行っても、もう間にあわない)
新橋の駅の手前まで来たとき、トットは足を止めた。これまで、ただの一度もヘソクリをしたことのないトットが、千円|札《さつ》を一枚、定期入の中に大切にしまってあることを思い出したのだった。千円あったら、タクシーに乗って、そのお茶の水ってとこに行けるかもしれない。どこから、こんなにまとまった考えが浮かんだのか、自分でもわからなかった。昭和二十八年|頃《ころ》、学生が一人でタクシーに乗るなんてことは、絶対にないことだったから。でも、トットは、その千円札をとり出すと、ヒラヒラさせながら、タクシー乗り場へとんで行って運転手さんに聞いた。「これで、これで、お茶の水の明治大学って行かれます?」若い運転手さんは、たのもしそうにいった。「ああ、大丈夫《だいじようぶ》!」
明治大学の門についたとき、NHKの係りの肥《ふと》ったおじさんが、運よく外を見てるとこだった。
トットは叫《さけ》んだ。「筆記試験!」
おじさんは、手まねきをすると、いった。
「早く、早く、もう始まってるよ」
トットは、かけ出した。試験場になってる階段教室の一番上のドアを開けた。静かだった。みんなの鉛筆のサラサラいう音だけだった。トットは、自分の番号の書いてある机にすわった。
(とにかく、間にあった)
両隣りは男の子で、どんどん書いていた。答案用紙が、トットを待っているように、白く光っていた。