わが国古来からの風習で、「引越しそば」というのがある。この明確な意味を、いま辞書でしらべてみると、
「今度おそばに参りました」
ということで、近所にくばるのだ、と書いてあった。要するに、語呂合わせのシャレを含んでいる。
それでは、「年越しそば」は、どういう意味合いか。
『細く長かれと祝って、大《おお》晦日《みそか》の夜または節分の夜に食う蕎麦』
と、辞書に出ている。
ただ、この日本語には、いろいろ考えさせられるところがある。
「細く長かれと祝って」という文章は、なにか落着かないが、それはともかく「細く長い」のは目出度いことだと最初からきめているところがある。
この反対語は、「太く短かく」であるが、「太く長く」という考え方はないのだろうか。外国では、どういう言い方があるか知りたいが、わが国では「太い」場合は、「短かく」なくてはいけないらしい。
「太く長く」などという考え方は、あまりにズウズウしく天も人もともに許さない、というわが国独特の貧しさが感じられる。
せめて、「年越しうどん」くらいの太さがあってもよいだろう。
「年越しスパゲッティ」はいいが、「年越しマカロニ」は許せない、という考え方がイタリヤにあるかどうか。
話はうどんに移るが、戦前には「キツネうどん」はあったが、「タヌキうどん」というものは存在しなかった。これを忘れている人が、年配の人にも案外多い。戦前は、天ぷらの揚げ玉を容器に入れて置いてあって、食べる人の好みによって、素《す》うどんにそれを入れていた。当然、揚げ玉の代金は無料である。
「タヌキうどん」ができたのは、昭和二十五年くらいではなかったか。
当時、私は毎朝百円持って、会社へ行っていた。月給が八千円くらいだったから、それ以上の金を持って出勤することは不可能である。
その金で、昼めしどきになると、近所のソバ屋へ行く。残りの金でパチンコをやって、タバコを取る。毎日そのことの繰返しであったが、ある日そのソバ屋に忽然《こつぜん》として「タヌキうどん」なるものが出現した。前の日までは揚げ玉の容器があったのだが、それが姿を消し、値段も十円くらいだったか、高くなっている。
忘れっぽくなっているから、あるいは私の勘違いかもしれない。
しかし、そういう「タヌキ」が現れたとき、
「ああ、ソバ屋まで、こんなミミッチイことをする世の中になったのか」
と、長嘆息した記憶が鮮明だから、間違いないとおもう。以来一度として、「タヌキ」なるものを食べたことがない。
それにしても、なぜ「タヌキうどん」というのだろう。おそらく「キツネ」があるから、「タヌキ」と命名したという、ごく単純な解釈が正しいのではあるまいか。しかし、客の側としては、化かされて余分に金を取られている、という気分になる。
ソバ屋の主人には頑固者が多い。
ノリをかけるとソバの風味を消すから、「ザルそば」(正しくは、ザルはノリの問題ではなくて、容器の形を指す、と聞いたが)は自分の店ではつくらない、というようなところはたくさんある。
そのくせ、「タヌキなんぞは、うちではつくらない」という店がないのも、不思議におもえる。