「大学陸上界に挨拶してやろう。俺ヽたヽちヽが寛政大学陸上部だ! とな」
さっき俺が言ってたこと、やっぱり聞いてたんだ。走はみたび、「すみません」と謝っ
た。「わかればいい」と清瀬は言った。
「きみは一人じゃないってことがな」
その記録会で、寛政大はあらゆる意味において派手な挨拶をする結果となった。
走は高校のときの自己ベストに近い、十四分〇九秒九五というタイムを出した。出場し
た一年生のなかで一番だったのはもちろんのこと、五千メートルの部で三位の好成績だっ
た。
記録会の運営を担当する学生が、簡素な表彰台を運んできて、トラックの片隅に置い
た。表彰台に上がって、自分のタイムが記載された賞状をもらうと、うれしさがこみあげ
た。高校の陸上部を退部したときから、走は一人で走ってきた。その時間は無駄ではな
かったし、まちがってもいなかったんだと、たしかな形で答えが出たと思った。
「仙台城西高にいた蔵原走だな」
振り仰ぐと、表彰台の一番高いところから、六りく道どう大学の選手が走を見下ろして
いた。つるつるに丸めた頭は、仏教系の大学だからなのか? と走は思う。無精髭を生や
した削げた と、しなやかに研ぎ澄まされた体は、厳しい修行に励む僧侶のようだった。
「速いやつがいると聞いてはいたが、寛政に入ったのか。頑張れよ」
あんたに言われなくても頑張る、と走は思ったが、相手が明らかに上級生らしかったの
で、「はい」とうなずいておいた。
「清瀬も復調してきたみたいじゃないか」
六道大の男は、観覧席に目をやった。そこでは清瀬が、表彰台にいる走を見守ってくれ
ていた。かたわらでは双子が、携帯電話についたカメラで、走の姿を撮ろうとしている。
この距離じゃ、撮ってもなにがなんだかわかんないだろ、と走は思った。
「ハイジさんを知ってるんですか?」
「よく知ってる。清瀬がベストの状態で走ったら、こんなものではないということも」
と、男は言った。「ちょっと気をつけてやれ。一緒に箱根を目指すつもりなんだろ
う?」
表彰台から下り、男は背筋をのばして去っていく。ゲートのところで、紫のユニフォー
ムを着た六道大の集団が男を待ち受けていて、「おつかれさまッス。おめでとうございま
す!」と、いっせいに頭を下げた。
「出所祝いかよ」
走は小声で悪態をつく。「だれだか知らないけど、言いたいこと言いやがって」
清瀬のタイムは、十四分二十一秒五一だった。練習初日に計ったタイムよりも、格段に
速くなってはいる。だが男が言ったように、まだ完全に膝が治ったわけでもなさそうだ
と、走も感じていた。疲れがたまっているのかもしれない。清瀬は、走りこみすぎるなと
走には言うくせに、自分ではすごく無理をするのだ。
観覧席に戻ると、竹青荘の住人たちが口々に祝福してくれた。はじめての記録会だった
にもかかわらず、住人たちも強心臓ぶりを見せつけ、ほとんどが目標だった十七分以内の
タイムを出すことに成功していた。特にムサは、十四分台に食いこむ健闘を見せた。双子
とユキは十五分台中盤、神童とニコチャンも十六分台前半のタイムだ。
これでメンバーのうちの八人が、箱根駅伝予選会に出場する資格を得たことになる。
キングは、惜しいところで十七分を超えてしまった。プレッシャーに弱いキングは、こ
の結果に、心理的に追いこまれたのか少し無口だったが、順当に行けば次の記録会では十
七分以内で走れるだろう。
問題は王子だ。王子は、脱水症状でも起こしたのかと審判員に勘違いされるほど、もの
すごい周回遅れになってしまい、走るのを止められそうになって、あやうく棄権になると
ころだった。
体調不良でもなんでもなく、一生懸命走っているのにその速度なのか。観客も、他大の
選手も、あまりの遅さに驚いたようだった。
「本当に陸上選手なのかよ。どこの大学だ?」
「寛政大だってさ」
そんな会話があちこちで交わされ、スタートから二十二分後に王子がぶっちぎりのビリ
でゴールしたときには、グラウンドに盛大な拍手が響いたほどだ。
「悪目立ちという意味でも、派手な挨拶ができたな」
と、ユキは肩をすくめた。
王子はゴールと同時に力つき、神童とムサによって観覧席に運ばれた。表彰式が終わっ
たいまも、ベンチにぐったりと横たわっている。
「走、よくやったな」
帰り支度をすませた清瀬が、走の背中をぽんと叩いた。「東体大のあの一年坊主が、こ
そこそとグラウンドを出ていったぞ。ざまあみろだ」
走は走るのに夢中で、 のことなどとっくに脳裏から消し去っていたから、「ハイジさ
んって執念深いな」と、ちょっとたじろいだ。
「さっき、一位になった六道大のひとに話しかけられました。ハイジさんのこと、知って
るみたいだった」
「ああ」
と清瀬はうなずいた。「あいつとは、高校でチームメイトだったんだ。箱根の王者・六道
大のキャプテン、四年生の藤岡一かず真ま。六道大の箱根駅伝三連覇の立役者だ。今回
も、四年連続優勝という大きな記録に向けて、盤ばん石じやくの態勢みたいだな」
「そんなに有名で、すごいひとなんですか」
「陸上をやっていて、藤岡を知らないのは走ぐらいだよ」
と清瀬は笑った。「きみはいつも、自分の走りに集中していて、まわりのことを気にし
ないからな。それがストイックでいいところでもあるが、いい走りをするやつを観察する
のも大切だぞ」
走もレース中に、もちろん藤岡の走りを見てはいた。無駄のないキレのいいフォーム。
レース展開を的確に読むクレバーな頭脳。藤岡は、「駅伝帝国」と称される強豪・房総大学
の黒人留学生マナスを、残り二周からどんどん追いあげ、ゴール前の直線でついに抜き
去って一位になった。タイムは十三分五十一秒六七。そのスタミナとスピードは、驚嘆す
べきものだった。
藤岡とマナスの最後の競りあいについていく力が、悔しいことにいまの走にはなかっ
た。実力と経験が、あまりにもたりなかった。
まだまだだ、と走は思った。もっと走りこまなければ。この体を極限まで絞って、しな
やかで強いバネをつけ、風に乗るぐらい速く軽やかに走りたい。あいつのまわりだけ酸素
が濃いんじゃないかと思われるほど、疲れを知らずに。
表彰台で感じた喜びは一瞬のうちに消え、走の心はあせりにとらわれた。
もっと速く。だれも感じたことのない高みへ、行きたかった。
帰りのバンのなかで、やっとしゃべるだけの体力を回復した王子が言った。
「スポーツマンって、さわやかそうでいて汚いよね。スタート直後にいい位置を取ろうと
して、みんなが肘でこづいたり背中を押したりしてくるし」