五、夏の雲
「こう暑くっちゃ、練習にならないなあ」
「でも練習しないと、住むとこなくなっちゃうよ……」
走かけるが台所で昼食の素 を湯がいていると、そんな会話が背後から聞こえてきた。
ジョータとジョージが、玄関先の廊下に寝そべって涼んでいるのだ。
清瀬が倒れて以来、竹青荘の住人たちは体調管理にいっそう気をつけるようになった。
往診してくれた近所の内科医のところで、月に一度は全員で貧血検査を受けることにし
た。サプリメントは何種類も台所に常備されているし、寝るまえにはあちこちの部屋で、
マッサージ合戦が繰り広げられる。
それでも、暑さだけはどうしようもない。
大学の前期試験も終わり、夏休みに突入したいま、気温は暴力的なまでに煮立ったもの
になっていた。竹青荘にはもちろんエアコンがついていないから、玄関も各部屋のドアも
開けっ放しだ。住人たちは少しでも過ごしやすい場所を求めて、廊下をなめくじのように
這いまわっていた。
大鍋から上る熱気と湯気が、そのまま皮膚に貼りついて汗に変わる。走は素 を手早く
ザルに移して流水にさらし、 つゆとミネラルウォーターと氷を食卓に置いた。
「できたよ」
Tシャツの肩口で汗をぬぐいながら声をかけると、双子はむっくりと起きあがった。
ジョータは食卓を見て、
「貧しいなあ。せめて薬味はないのかよ、薬味は」
と文句を言う。
「いま、ハイジさんが庭にシソを摘みにいってくれてる」
ザルに山盛りの素 を食卓の真ん中に据え、走は空いた大鍋の底をおヽたヽまヽで叩い
た。竹青荘のそこかしこから、瀕死の蛇みたいな住人たちが出てきて、台所に集まった。
「ハイジはどこまでシソを取りにいったんだ」
「神童さんもいないです。どうしたんでしょう」
「それにしても、大家さんはひどいよ。あんなに怒ることないじゃない」
「当然だと思うけど」
住人たちは、素 をすすりながらため息をつくという、器用な芸当を見せた。
清瀬が倒れた夜、心配した大家は、竹青荘に入ってこようとした。神童とムサは必死に
大家を押しとどめ、敷居をまたがせなかった。
不審に思った大家は翌日、住人たちが大学に行っている隙に、竹青荘に上がりこんだ。
そして玄関先で早速、頭上の双子の部屋にあいた穴を発見してしまったのだ。
我が子のように大事にしているボロアパートに、穴を開けられた大家の哀しみは深かっ
た。住人たちを集め、大家は通告した。
「竹青荘の修繕費が必要だ。積み立てのため、家賃を引きあげる」
「えー!」
「えーじゃない!『箱根駅伝で活躍して、合宿所を新築してくれる強力なスポンサーをつ
かんできます』ぐらい言わんかい!」
「そこまでしてくれるスポンサーなんていないよ」
と、穴を開けた張本人であるジョータがぼやいたが、大家のひとにらみで黙った。
「まだまだエネルギーが有り余っとるようだし、箱根ぐらい楽勝だろう。家賃引きあげが
いやなら、なにがなんでも箱根に出ることだ」
これ以上刺激すると、高齢の大家は怒りのあまりぽっくりいってしまうかもしれない。
一同はおとなしく、「わかりました」と言うしかなかった。
「引っ越しなんて、とても無理だし。家賃据え置きのためにも、練習したいけど……」
と、部屋に漫画をためこんでいる王子が言う。「夏に走るのって、はっきり言って自殺
行為じゃない? ほかの陸上部は、どうしてるんだろ」
「たいてい、涼しいところで合宿しますね。北海道とか」
と走は答えた。
「北海道!」
ジョージはその言葉だけでうっとりした。カニとかウニとかラーメンとか、考えている
ことが つゆに映りそうなほどわかりやすい。早いうちに現実に引き戻したほうが傷も浅
いだろうと判断し、走は咳払いした。
「俺たちは無理だよ。金がないから」
がっかりしたジョージが、溶けかけた氷とともに素 を飲み下したそのとき、清瀬と神
童が台所に駆けこんできた。
「遅えぞ、ハイジ。食い終わっちまった」
そう言ったニコチャンに、清瀬は手に持っていたシソの葉を押しつけた。
「灼熱地獄の東京を脱出しよう。合宿に行くぞ」
「北海道!?」
双子が立ちあがる。
「いや、白樺湖だ」
北海道ほどのインパクトには欠けるが、蓼たて科しな高原にある白樺湖も、有名な避暑
地だ。
「でも、合宿費用はどうするんですか」
走が尋ねると、
「商店街の有志が、協力してくれるそうだ」
と清瀬は言った。「泊まるのは、『バッティングセンター岡井』のオーナーが、白樺湖
に持っている別荘。合宿中の食材は、八百勝さんほかが提供。往復の交通手段はアオタケ
のバンだし、金はそんなにかからない」
「資金繰りについては、安心していいよ」
と神童が請けあう。「商店街にも大学関係者にも、僕たちが箱根を目指していることを
宣伝中だ。後援者はきっと増えてくる。それに、ニコチャン先輩の針金人形が、予想以上
の売れ行きを示してますからね」
「なに?」
ニコチャンが呆然として言った。シソをちぎっては、素 を食べ終えていないものの器
に分配していた手の動きが止まる。
「あれを売ってんのか。いったいどこで、だれがなんのために買っていくんだ、あんなも
の」
「雑貨屋に置いてもらったら、女の子たちに好評なんですよ。魔よけの人形、キモカワイ
イー! って」
神童は微笑んだ。「これからもどんどん作ってくださいね」
「やったー! がっしゅく、がっしゅく!」
ジョータとジョージが手を取りあって喜ぶ。王子の姿はすでに台所から消えていた。合
宿になんの漫画を持っていくか、自室で検討をはじめたらしい。それぞれに、楽しい夏合
宿への夢想は広がる。
湖畔を吹きぬけるさわやかな風。白いワンピースを着た美少女と、焼きトウモロコシを
かじりながら一緒に白鳥ボートに乗る俺。やがて秋が訪れても、俺たちの愛は終わらな
い。東京での再会を約し、白樺林のなかで、しばしの別れに涙するのだった……。