釈迦の入滅を知った森の動物たちのように、走たちはしんみりと布団のまわりに集まっ
ていた。見送りから戻ってきたユキと神童は、通夜のような雰囲気にたじろぎつつ、畳に
腰を下ろした。
「考えてみれば、私たちはすべてをハイジさんに任せっきりでした」
とムサが言った。
「そうだよなあ」
キングが腕を組む。「記録会へのエントリーとか、事務的なこともそうだし、飯を作る
のだって全部ハイジがやってくれてた」
「監督兼コーチ兼マネージャー兼寮監みたいな働きぶりだった」
とジョータ。
「練習だけでいっぱいいっぱいだったせいもあるけど、それにしても僕たち、ハイジさん
に負担をかけすぎていたね」
神童は苦い思いを みしめているようだ。ジョージがあえて明るい口調で提案した。
「これからはさ、せめてご飯を作るのぐらいは当番制にして、みんなで協力していこう
よ」
そこここで同意の声が上がった。
「そうとなったら、仲直りだな」
ニコチャンは言って、走と王子を交互に見た。
「はい」
王子はあっさりと、走はおとなげなかった態度が気まずくておずおずと、うなずいた。
「双子も、走を許してやれ」
とユキが言うと、ジョータとジョージは照れくさそうにちらっと走を見、「もちろん」
と声をそろえた。
「さあ、手打ちだ」
とニコチャンが音頭を取った。「ハイジの遺志を無駄にするな。一丸となって箱根に行
こう」
「おう!」
清瀬の眠る布団越しに、竹青荘の住人たちは固く手を握りあった。
「俺は死んだ覚えはないぞ。縁起でもない」
と声がして、走ははっと枕のほうを見た。清瀬が目を開けていた。
「まったく、なんの騒ぎだこれは」
腹のうえで複雑に絡みあった住人たちの腕をどかし、清瀬は身を起こそうとした。
「寝ててください」
走は急いで清瀬の肩を押し、再び布団に横たわらせる。「ハイジさん、倒れたんです
よ。過労で貧血を起こした、ってお医者さんが言ってました」
「そうか。迷惑をかけた」
自分を覗きこんでいる走の顔を、清瀬は見上げた。「でも、喧嘩は終わったみたいだ
な。よかった」
走は改めて正座をし、「すみませんでした」と頭を下げた。
「俺、ずっといらいらして、あせっていました」
「ユキの部屋からの音漏れがうるさいせいだろ?」
ニコチャンが「わかるぜ」と共感を含んだ目で言った。
「それを言うなら、天井の軋みのせいじゃないか」
ユキの言葉に、やましいところのある王子がびくつく。走は急いで、「いえ」と言っ
た。
「アオタケに来るまえからです。ただ走るだけで、あんまりまわりが見えてなかった」
どうすればいいのか、いまも本当のところよくわかっていない。速さ以外の、なにを指
標にして走っていくべきなのか、走はまだ見いだせなかった。でも、と走は顔を上げる。
「これからは、俺も本気で箱根駅伝を目指します」
「ええー!?」
双子の部屋は驚愕で揺れた。
「これからは、って、じゃあいままではなんだったの?」
ジョージは みつきそうな勢いだ。
「いや、なんとなく話を合わせておこうかな、っていうぐらいだった」
走は正直に言った。「どうせすぐに、みんな飽きてやめるだろうと思ってたし。ごめ
ん」
「その程度のモチベーションなのに、よくあれだけ練習できるね」
と、神童は感心しきりだった。
「俺、走る以外に得意なことがないですから」
走は真面目に言ったのだが、ユキは「やれやれ」と首を振り、キングは「おまえ変態だ
な、走」とあきれかえった。
「走ってすごいよねえ。すごすぎておかしいよ」
ジョージが笑いを押し殺す。おかしいってなんだ、と走はちょっと憤然としたが、清瀬
までもがうなずいているのを見て、抗議はしないでおいた。
「漫画を読むのはやめられないけど、僕ももっと頑張ることにする」
と、王子が顔を上げて宣言する。
わだかまりがまったくなくなったわけではないが、同じものを目指していこうという気
持ちが、はじめて全員の胸に、等しく芽吹いた。
その様子を眺めていた清瀬が、
「走」
と呼んだ。走は正座したまま、枕に頭を載せている清瀬に少し近づいた。
「長距離選手に対する、一番の褒ほめ言葉がなにかわかるか」
「速い、ですか?」
「いいや。『強い』だよ」
と清瀬は言った。「速さだけでは、長い距離を戦いぬくことはできない。天候、コー
ス、レース展開、体調、自分の精神状態。そういういろんな要素を、冷静に分析し、苦し
い局面でも粘って体をまえに運びつづける。長距離選手に必要なのは、本当の意味での強
さだ。俺たちは、『強い』と称しようされることを誉ほまれにして、毎日走るんだ」
走も、ほかの住人たちも、清瀬が語ることにじっと耳を傾けた。
「この三カ月、きみの走りを見て、俺はますます確信した」
と清瀬はつづけた。「きみには才能と適性がある。だからね、走。もっと自分を信じ
ろ。あせらなくていい。強くなるには時間がかかる。終わりはないと言ってもいい。老人
になってもジョギングやマラソンをするひとがいるように、長距離は一生をかけて取り組
むに値する競技なんだ」
走ることへの走の情熱は、常に曖昧な情動にも似て、走の心を不安定に揺らがせてい
る。だが清瀬の言葉は、もやもやと暗くたゆたうばかりの走の内面に、なんて鮮やかに切
りこんでくるのだろう。それは胸を一いつ閃せんし、なだれをうって走を照らす光だ。
しかし面おも映はゆさも手伝って、走は反論してしまった。
「でも、老人に世界記録の更新はできません」
「大きく出たじゃねえか」
とニコチャンがからかい、しょうがないなというように、清瀬も微笑んだ。
「俺もそう思っていた。故障するまでは」
清瀬は穏やかに言った。「だがお年寄りのランナーのほうが、走よりも『強い』という
ことはありうる。長距離の奥深いところは、そこなんだよ」
清瀬の言葉は、走だけではなく居合わせたもの全員に向けられたものだった。疲れたの
か、清瀬は話しやめてまぶたを下ろした。ジョータとジョージが、
「ハイジさん、ここで寝ちゃやだー」
と清瀬を揺すった。
「うるさい。解散」
と清瀬がもごもご言う。
一同は静かに双子の部屋を辞した。
走が最後に廊下に出た。ドアを閉めるときに振り返ると、押入から出したもう一組の布
団に、双子がぎゅうぎゅうともぐりこんでいるのが見えた。
ハイジさんの言った、強い走りとはなんだろう。走は考える。腕力や脚力の強さではな
いのはわかる。でも、精神力だけを指しているのでもなさそうだ。
走はふと、子どものころに見た雪野原を思い出した。早起きして近所の野原に行くと、
夜のあいだに積もった雪が、見慣れた景色を一変させていたのだ。だれの足跡もついてい
ない白い野原を、走は走った。きれいな模様を描くために、心のおもむくまま走った。走
ることを楽しいと思った、一番最初の記憶だ。
強さとはもしかしたら、微妙なバランスのうえに成り立つ、とてもうつくしいものなの
かもしれない。あのとき雪のうえに描いた模様みたいに。
そう思いながら、走は音を立てないようにそっと階段を下りた。
翌日は、ひさしぶりに晴れた空が広がっていた。走が早朝のジョッグを終えて戻ってく
ると、竹青荘の庭先で清瀬がニラに餌をやっていた。
走の姿を認めた清瀬は、「おかえり」と言った。「ただいま」と走は返す。
澄んで輝く朝の光。いつもどおりの、新しい一日のはじまりだった。