キングが立って、ダイニングの窓から表を眺めた。清瀬が、
「ここに帰ってくるあいだに、ムサと神童を見かけたものは?」
と聞く。だれも手をあげない。ニコチャンが階段を上がっていった。林のなかで目印に
なるよう、二階の電気をつけてまわる音がする。
「どこ行っちゃったんだろう」
「探しにいったほうがいいんじゃない」
双子が不安そうに提案した。
「いや、これ以上迷子を増やしてもまずい。もうしばらく待ってみよう」
そう言いながらも清瀬は、心配でたまらないのだろう。玄関のドアを開け、闇に沈んだ
林道を見つめた。耳をすませても、ムサと神童の足音は聞こえない。カレーが冷めていく
が、夕飯どころではなくなった。
走も清瀬とともに、戸口にたたずんだ。二階から降りてきたニコチャンが、「なあに、
たとえ一晩ぐらい野宿したって、平気だよ」と清瀬の肩を叩く。
そのとき、背後の勝手口が勢いよく開いた。驚いて振り向くと、ダイニングの奥、台所
の横手から、ムサと神童が入ってくるところだった。
台所の裏は、道もない急斜面だ。まさかそんなところからムサと神童が登場するとは
思っておらず、走は呆気にとられた。
「大変、大変!」
「東体大も白樺湖に来てるんですよ!」
と、ムサと神童は叫んだ。
気を取り直し、全員でテーブルを囲む。カレーライスを食べながら、ムサと神童が語っ
たところによると、別荘よりもさらに山を登ったところに、東体大のクラブハウスがあっ
たのだそうだ。
「まだ新しい建物ですよ。明かりがついてるから、てっきりこの別荘だと思って近づいた
ら、東体大のやつらが飯を食ってるのが窓越しに見えたんです」
と神童は言った。
「ちなみにメニューは焼き肉でした。あれは最高級の和牛だと思われます」
とムサが補足する。キングが黙然と、豚挽肉入りカレーをかきこんだ。
「どうして、山を登ったりしたんだ」
と清瀬が尋ねた。
「登りたかったわけではないです」
「暗くて道に迷ったんですよ」
ムサと神童はあっさりと答える。
「神童。きみは、山には慣れてるんじゃなかったか」
「慣れてるけど、方向音痴でもあるんですよねえ」
「私もです。友人に誘われても、決してサバンナには行くなと、本国でも親にきつく言わ
れていたほどで」
こめかみを揉む清瀬に、走は小声で話しかける。
「どうするんです、ハイジさん。神童さんを、箱根の山上り区間にエントリーするつもり
だったんでしょう?」
「ああ」
清瀬はうめいた。「駅伝テレビ中継史上初の、リアルタイム箱根遭難劇が見られるかも
な」
「先導車もいるし、それはないと思うが」
ユキは冷笑する。「いざとなったら、神童の野生の嗅覚に託すしかない。箱根の山の道
なき道をかきわけて、芦ノ湖へ先まわりしてもらおう」
「え、そういうのってアリなの?」
会話を聞きつけたジョージが、ほがらかに疑問を呈した。
「アリなわけがないだろう。ルートをはずれたら失格だ」
と清瀬がたしなめ、
「昔はあったらしいぜ」
と、キングが雑学を披露した。クイズマニアだけあって、箱根駅伝についての豆知識も
調べたらしい。
「参加校が四校ぐらいだった、大正時代の話だけどさ。どの大学も、一番熱心に取り組ん
だのは練習じゃなく、箱根の山でいかに近道を発見するか、ってことだったんだって。ま
あ箱根駅伝にも、ラジオの中継も入ってないような、牧歌的な時代があったってことだ
な」
「そんなの、ズルじゃないの?」
王子は桃の皮を きながら言った。ニコチャンがご飯をおかわりしながら笑う。
「大学生が考えそうなことだなあ」
箱根の獣道を行く大正時代の学生たちを、走は思い浮かべた。ライバルと必死に張り
あって、でもちょっと楽をしたいなあと算段したりもする。いまとあんまり変わらない、
おバカで明るい学生たちの姿だ。
「近道は、予選会を突破したら探すとして」
「だめだってば」
「問題は東体大だ。どうする?」
とユキが言った。
「明日から、湖沿いの道で確実にかちあいますね」
と神童もつぶやく。走は無言で闘志をみなぎらせた。ジョッグといえど、東体大の選手
には絶対に抜かれるものか。
「喧嘩するなよ」
と清瀬が注意した。「湖はひとつしかないんだ。譲りあって仲良く走ろう」
竹青荘の面々は、別荘の二階で毛布をかぶって雑ざ魚こ寝ねし、小鳥のさえずりととも
に起床した。ストレッチをし、清浄な空気のなかで、まずは朝食前のジョッグを。そう
思ってみんなで湖畔の道に出たとたん、東体大の選手たちと行きあった。
そろいのジャージを着た東体大の陸上部員たちは、開店前の土産物屋の駐車場で、朝の
ミーティングを終えたところだった。五十人ほどが、レベル別に隊列を組んで、ジョッグ
をはじめようとしている。
監督と、数人いるコーチらしき人物が車に分乗し、それぞれの隊について伴走するよう
だ。統率の取れた東体大のメンバーが、上級生から順に走りだす。ジョージは「すごいな
あ」と、素直に感嘆してみせた。
寛政大学の長距離部員は、竹青荘の十人しかいない。練習前のミーティングをしたこと
もないし、監督はあいかわらず不在のまま。着ているものもばらばらだった。双子など、
白樺湖の景観を著しく損なう、ハワイ土産の極彩色のTシャツだ。
東体大一年の が、こちらに気づいたようだった。一緒に走っていたチームメイトに、
なにか耳打ちする。ざわめきがすみやかに東体大の一団に広がり、特に一年生のなかに
は、振り返って走たちを見るものが続出した。