俺に欠けていたのは、言葉だ。もやもやを、もやもやしたまま放っておくばかりだっ
た。でも、これからはそれじゃあだめだ。藤岡のように、いや、藤岡よりも速くなる。そ
のためには、走る自分を知らなければ。
それがきっと、清瀬の言う強さだ。
「俺、わかってきたような気がします」
走はぽつりと言った。
「そうか」
清瀬は満足そうだった。
メガホンを持ち、学ランを着た学生が壇上にのぼった。予選会の結果が記されたメモ
を、うやうやしく開く。箱根駅伝を主催する、関東学生陸上競技連盟の運営委員の学生
だ。補佐の女子学生が、掲示板の脇に立つ。集まったものたちは、期待と不安を宿して耳
をそばだてた。
「東京箱根間往復大学駅伝競走、予選会通過校を発表します。一位、東京体育大学」
東体大の一団が、大きな歓声をあげた。 が先輩に、喜びの平手打ちを食らっているの
が見える。東体大は選手がばらけることなく、そろっていい順位でゴールした。選手層の
厚さを見せつける、総合力の勝利だった。
女子学生が、掲示板の一位の札を引き抜く。一位の欄に、「東京体育大学」の名と、十
人の合計タイムが書いてあった。十時間〇九分十二秒。十人を平均した順位は四十九位
だ。
「やはり、かなりハイペースなレース展開だったな」
清瀬は低くうなった。清瀬の表情から、予選通過が厳しい状況であることがうかがわれ
た。走は両手で拳を作った。
「二位」
発表係は、淡々とメモを読みあげる。「甲府学院大学」
また一角で、歓喜が爆発した。キングは「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「あの発表係、順位と大学名のあいだに、絶妙な間を置きやがるなあ」
「もったいぶらずに、さくさく行こうよ」
やっと復活した王子が、さっそく文句を垂れる。
「ああもう、心臓が壊れそう!」
双子と葉菜子は寄り添って、巣から落ちた鳥の雛みたいに震えている。
五位まで発表は進んだが、寛政大の名は呼ばれなかった。ここまではすべて、箱根常連
校で占められている。六位に入れなければ、七位から九位まではインカレポイントが絡ん
で、予選会の合計タイム順とはちがう結果になる可能性が高い。
「六位」
「お願いお願いお願い!」
「寛政来い、寛政来い!」
必死の願いもむなしく、発表係は「西京大学」と言った。
「ああー!」
「だめか? だめなのか?」
ニコチャンとユキが、天を仰いだ。清瀬は無言のまま、掲示板を見つめている。まだ白
い札に隠された、七位から九位の欄を透視せんばかりの眼光だ。
「規定により、七位以下は、合計タイムから各大学のインカレポイントを引いたタイム
で、順位を決定しました。七位、城南文化大学」
走は足から力が抜けそうになったが、なんとか持ちこたえた。まだだ。出場枠はあと二
つある。右肩に痛みを覚えた。見ると、神童の指が食いこんでいた。ムサは神童の腕に半
ば顔を埋めるようにして、なにやらぶつぶつと母国語で言っている。
大丈夫ですよ、きっと大丈夫です。走は腕をのばし、神童とムサの背をそっと撫でた。
「八位、寛政大学」
空耳かと思った。キングが飛びかかってきた。清瀬がめずらしく全開の笑顔で両手を空
にあげた。ムサと神童は、へなへなと芝生に腰を下ろした。ニコチャンとユキがハイタッ
チを交わし、双子と葉菜子がわめきながら、走の体じゅうをはたいた。
もみくちゃにされながら、走は見た。掲示板に、「寛政大学」の文字が燦さん然ぜんと
輝いているのを。王子が輪の外で、一筋の涙を流したのを。
やったんだ。ようやく、事実が脳まで達した。俺たちは、箱根駅伝に出場できるんだ。
気づくと走は、腹の底から咆ほう哮こうしていた。
寛政大学の合計タイムは、十時間十六分四十三秒。十人の平均順位は、八十六位だっ
た。
七位の城南文化大学は、実質的には十時間十七分〇三秒。インカレポイントによって、
寛政大よりも順位を上につけたわけだ。九位ぎりぎりで予選を通過したのは、新星大学。
タイムは十時間十七分十八秒だった。
走は掲示板に書かれたタイムを見上げ、安堵と喜びで大きく息を吐いた。寛政大学はは
じめての挑戦で、見事に箱根への切符を手に入れたのだ。それも、十時間十六分台という
七位相当のタイムで。
あちこちで、驚きの声があがっていた。
「寛政がやりやがった」
「しかも部員は、あの十人しかいないらしいよ」
「三位と六位でゴールしたひとのいるところでしょ? もうユニフォーム覚えた」
「あたしも。黒地に銀のラインが入ってんの。ちょっとかっこいいよね」
芝生広場で陣地を片づけているときも、密着取材のカメラに向かって、一言ずつコメン
トを求められたときも、走は頭がくらくらして、酸欠状態だった。走っていたときより苦
しく、足もとがおぼつかない。
予選会を通過しただけだ。本番は来年の正月。約七十五日後の箱根駅伝なんだから。そ
う言いきかせても、うれしさが胸にあふれる。
清瀬はかつて言った。「箱根は蜃気楼の山なんかじゃない」と。本当にそのとおりだ。
竹青荘の住人たちは、実体として山が見えるところまで、とうとうやってきた。
走は沸き立つ気分のまま、ビニールシートを手際よく畳んだ。ジョータとジョージが芝
生に座っていた。掲示板から結果を写してきたメモを覗きこんで、なぜか顔をしかめてい
る。
「どうした」
と走は声をかけた。双子が走を振り仰いだ。
「ハイジさんは、頂点を取ろうって言ったよな」
ジョータがつぶやく。
「うん? そうだっけ」
走は軽い気持ちで相槌を打ったが、ジョータは納得しない。
「言ったよ。でも、このタイム……」
「どうしたんだよ」
走はビニールシートを置き、双子のそばにしゃがんだ。「早く片づけて帰ろう。きっと
今夜は宴会だ」
「走、頂点って優勝じゃないのか?」
ジョージが悲壮な表情で言った。「俺たちの合計タイムが、十時間十六分四十三秒。予
選一位通過の東体大が、十時間〇九分十二秒。七分半も差がある。それなのに、これはま
だ予選会でしょ? じゃあ、箱根で優勝するような大学の選手は、いったい二十キロをど
れぐらいの速さで走るの?」
「俺たちも練習すれば、正月までにそのレベルになれるのか?」
ジョータは真剣に問いただしてきた。「なあ、どうなんだよ走」
走は、なにも答えられなかった。