八、冬がまた来る
選手が十人しかいないチームが、予選会を通過し、箱根駅伝に出場する。
竹青荘の住人たちが成し遂げた快挙は、大学陸上界だけにとどまらず、広く人々の話題
にのぼった。
一九八七年に箱根駅伝のテレビ中継がはじまって以来、関東の学生ランナーのためのこ
の大会の名を、日本に住んでいて知らないものはまずいなくなった。レースの過酷さにお
いても、正月に放映される華やかさにおいても、箱根駅伝は人々の注目を集めずにはおか
ない。
そういう有名な大会に、たった十人で挑む。なぜ、そんな無謀なことをしようと思いつ
いたのか。当日、故障者や体調不良者が出たらどうするのか。ふだんはどんな練習メ
ニューをこなし、どう暮らしているのか。
好奇心旺盛な付近住民や、入部希望の学生が、竹青荘をひっきりなしに訪れるように
なった。学生の大半が、陸上未経験者だ。予選会を通過したと知って、一時の気持ちの盛
りあがりで入部を申し出るものも多かった。
清瀬は、来訪を断る旨を丁寧に紙に書き、竹青荘の玄関に貼った。入部を希望してくれ
るのはありがたいが、寛政大ブームはすぐに去るだろうし、公認記録がなくてはエント
リーはできない。竹青荘はすでに満員だ。清瀬は熟考のすえ、いまから新たな部員を加え
るより、十人で練習に集中し、団結して箱根を目指したほうがいいと判断した。
付近住民に対しては、商店街の店主たちが「練習の邪魔をしないように」と呼びかけ
た。住民たちのほとんどは、生け垣の外から竹青荘を覗くことで満足するようになった。
例外は、畑の作物をそっと差し入れする老人たちだ。
朝のジョッグに出ようとして、玄関先に置いてある白菜や梨に気づいた走かけるは、
「なにかの恩返しか?」と思った。吠えもせず老人たちの行為を見ていたニラは、走に向
かって尻尾を振るばかりだ。結局、だれの仕業なのかわからぬままに、竹青荘の住人たち
は、たびたび置かれる作物を腹に収めた。
もちろん、マスコミの取材依頼も殺到した。陸上専門誌のみならず、週刊誌、新聞、テ
レビ。ありとあらゆるメディアが、接触を図ってきた。清瀬と神童はそれらを慎重に吟味
し、「練習に集中したいから」と、ほとんどすべての申し入れを謝絶した。
ただ、夏合宿のときから応援してくれた、『月刊陸上マガジン』の佐貫と、読売新聞社
の布田の取材には応えた。二人はランナーの心理をよく知っているから、邪魔にならない
ように練習を眺め、的を射た質問をてきぱきと発した。竹青荘の面々に対して好意的な記
事が、それぞれの媒体に掲載された。
双子とキングは浮かれて、もっと取材を受けようと主張した。
「せっかく箱根に出るんだからさ。注目されたほうがいいじゃない」
とジョータは言った。
「そのほうが、就職も有利になるかもしれないしな」
とキングも言った。
「そんなことより、もうちょっと練習に本腰を入れてくれ。さもないと、あまりにも情け
ない走りが全国に放映されて、否応なしに注目を集めることになるぞ」
清瀬が一蹴しても、双子とキングは引き下がらない。
「やだー。テレビに出たい。テレビテレビ」
と、わめきたてる。夕飯の席で繰り広げられる攻防を、走は感心して眺めていた。
箱根駅伝に出場するというだけでも、走の心は緊張と高揚でざわついているのに。双子
たちはそのうえさらに、テレビの取材を受けるという「非日常」を味わいたいと言うの
だ。無邪気なのか、貪欲なのか、恐れを知らないだけなのか。
双子たちは、春までは長距離と関係なく生きてきた。だから、箱根駅伝がどれだけ重み
のある大会なのか、あまりぴんと来ないのかもしれない。
一九二〇年にはじまった箱根駅伝は、戦時中の数年を除いて、毎年行われてきた。戦争
直後の食糧難のなかでも、選手たちは襷をつなぎ、箱根の山を目指したのだ。走るものに
とってはそれぐらい重要な、八十回以上の伝統がある大会だ。
学生ランナーの憧れであり、夢である箱根駅伝。そこに参加する意味と価値が、双子た
ちにはよくわかっていないのかもしれない。わかっていないのに練習し、出場権をもぎ取
る実力があったんだから、やっぱりただものじゃない。走はそう感心し、愉快に思ったの
だった。
黙々と箸を運ぶ清瀬を両脇から挟み、双子の直訴はつづいていた。
「ねえねえ、一回ぐらいテレビに出ようってば」
「それぐらいの特典があってもいいでしょ。だってハイジさんは……」
「俺が、なんだ」
清瀬は箸を止めた。ジョージはふと口をつぐみ、なにか言いたげにもぞもぞしていた
が、やがて首を振った。
「なんでもない」
結局、清瀬が根負けし、テレビ取材を受けることになった。夕方のニュースの、五分ほ
どのトピックスコーナーで、竹青荘の住人たちの生活ぶりが紹介されるということだ。
テレビカメラがやってきて、漫画であふれた王子の部屋や、万年床の周辺に小さな禁煙
人形がいっぱい転がっているニコチャンの部屋を撮った。原っぱでの練習風景の撮影と、
メンバーへのインタビューも行われた。
インタビューには、双子とキングが率先して答えた。なりゆきっていうか、ハイジさん
に脅迫されたっていうか、とにかく気がついたら箱根を目指してました。風邪を引かない
ように、レモンの蜂蜜漬けを毎日食べてます。特別な練習はしてないです。ほかの大学の
陸上部と同じようなメニューだと思います。
走はいつものように、画面から見切れるほどの隅っこで、おとなしく立っていた。
「なんで隠れるんだ、走」
とユキに聞かれたが、「いえ、べつに」と曖昧に笑ってごまかす。インタビューを見
守っていたニコチャンが、走を振り返った。
「まさかおまえ、逃亡中の指名手配犯だとか言わねえだろうな」
「そんな、ちがいますよ」
ならいいけどよ、とニコチャンは疑わしげな眼差しを寄越す。
「それはともかく、どうも最近、おかしなムードだと思わないですか」
とユキが言った。まあなあ、とニコチャンはうなずく。走も気づいていた。竹青荘の内
部が、なんだかぎくしゃくしているのだ。
一階の住人は、いままでどおりだ。二階の住人もほとんどが、いつもと変わらない態度
で練習している。だが双子は、明らかに鬱屈した思いを抱えているようだった。端的に言
えば、清瀬に対して、だ。
喧嘩をしているわけでも、反抗的な素振りを見せるわけでもない。しかし微妙に距離を
置こうとする。清瀬はこれまでと同じように接しているのに、ジョータとジョージはどこ
か打ち解けない。清瀬への信頼が、なぜか薄らいでしまっているようだった。
そのぎこちなさは竹青荘じゅうに伝播し、なんだか居心地の悪い雰囲気が、予選会直後
からずっとつづいていた。