「どうしたんだかなあ」
とニコチャンは言った。「走、おまえは双子と同学年だ。それとなく聞いてみろ」
「なにをですか?」
「なにって、胸の内ってやつだよ」
「ああ……、はい」
と答えたものの、走は正直なところ、荷が重いなと感じた。
練習はますます量と密度を増していた。一万二千メートルを、最初の五千メートルは十
七分でゆっくりと入り、そこからペースを上げて、最後の千メートルは三分〇五秒ペース
にしたり。それが終わると今度は、千メートル二分五十五秒を、あいだに二百メートルの
インターバルをおいて五本こなしたり。
走は自分の走りを考えることで精一杯だった。腕の振りは、着地の際の足の角度は、筋
肉の弛緩と緊張は、これでいいのか。細胞の隅々にまで意識を張り巡らせ、一足ごとに走
りを確認する。
もちろん練習の合間に、大学の講義も受けなければならない。他人のことまで、なかな
か気がまわらない状態だった。
たまたま、銭湯「鶴の湯」で双子と一緒になることがあった。双子が洗い場へ入ってき
たとき、走と清瀬は富士山の絵を背にして湯船に浸かり、居合わせた左官屋と話をしてい
た。
「どうだい、ハイジ。竹青荘のやつらの調子は」
と左官屋は言った。左官屋は洗い場には背を向けて湯のなかに座っていたので、双子に
は気づいていなかった。いつもなら声をかけてくる双子も、湯船の蛇口のそばにいる清瀬
を見て、無言でちょっと会釈しただけだった。
「いいですよ」
と清瀬は左官屋に答える。
「一年生がよくやってるよなあ」
左官屋は湯から両手を出し、顔をこすった。「走もすごいけど、ほら、あのそっくりな
双子。あいつらもなかなか速いじゃねえか」
清瀬がなんと答えるのかと、走は気を揉んだ。左官屋の背後で、洗い場のジョータと
ジョージが聞き耳を立てている。会話に意識をとられているためか、ジョージは手もとを
狂わせ、頭に大量のシャンプーを垂らした。
「そうですね」
清瀬は笑った。「本人たちのまえで言うのもなんですが、いい走りをします」
「本当に?」
とジョータが洗い場で椅子から立ちあがり、左官屋がびっくりして背後を見る。
「嘘をついてどうする」
清瀬は湯船から上がった。「左官屋さん。有望な選手が育ちつつあるので、商店街から
の支援、これからもお願いします。お先に」
双子の後ろを通りすぎ、清瀬は風呂場の引き戸を開けて脱衣所へ消えた。ジョージは、
「俺たちがいたから、ハイジさんは褒めてくれただけだよ」と、だれにともなくつぶや
く。だが、うれしいらしいことは隠しきれない。勢いよくシャンプーしたため、ジョージ
の頭はまたたくまに泡でこんもりと覆われた。
「なんだなんだ、おまえら。挨拶もしないで」
左官屋は清瀬と双子の言動を見比べたのち、まだ湯船にいる走に向き直った。「もしか
して、喧嘩でもしてんのか?」
小声で聞かれ、走は「さあ」と肩まで湯に浸かった。
「そういうわけじゃないと思うんですけど」
双子は、清瀬になにか不満があるのかもしれない。だが、それをいつまでも内に秘めて
いることはできないだろう。どちらかというと、率直で天真爛漫な性格だからだ。きっ
と、早いうちに感情を爆発させ、清瀬に直接ぶつけるはずだ。問題を解決するために動く
のは、それからでも遅くはない。
走は双子を放っておくことにした。休火山を、わざわざつつくことはない。噴火が起こ
れば、どこに火口があるのかは自然にわかる。位置と風向きをしっかり見極めてから、避
難するなり、あふれだした溶岩が冷えるのを待つなりすればいい。そう思った。
通常の練習に加えて、本番のコースの試走もはじまった。交通量が多い道路ばかりなの
で、試走は禁じられているが、だからといって一回も走らないまま当日を迎えるわけには
いかない。
車の少ない早朝に、竹青荘の面々はバンに乗りこみ、あるときは大手町近辺、またべつ
のときは湘南海岸沿いへと出向いた。少しずつ細切れに、コースを実際に自分の足で走っ
てみる。道の起伏についてや、何キロ地点にどんな目標物があるのかなどを、体と脳に刻
みつけていく。
清瀬は、どの区間をだれが走ればいいか、だいたいのオーダーを頭のなかですでに組み
立てているようだった。
横浜駅の近くを試走しているとき、清瀬は言った。
「走、二区を走りたいか?」
鶴見から横浜を通って戸塚に至る区間は、「花の二区」とも称され、各大学のエースが
エントリーされることが多い。いいタイムで箱根駅伝を走ったとして、それが二区だった
のか、そのほかの区間だったのかで、実業団からの引きもちがってくるほどだ。
走は、「いいえ」と答えた。
花の二区にこだわりはなかった。どの区間であろうと、道があるかぎり全力で走るだけ
だ。
清瀬は「そうか」と言い、あとは黙ってコースのチェックをした。
十月の下旬には、箱根に試走に行った。箱根の山は、うねうねとした細い一本道だ。紅
葉には少し早いとはいえ、週末は大渋滞する。
清瀬は箱根湯本駅前の駐車場にバンを入れ、
「さて、みんなで芦ノ湖まで走ってみよう」
と言った。
「いやだー!」
と、双子の口からすかさず抗議の声があがる。
「ふつうに歩くのだって大変な傾斜なんだよ? そこを二十キロも駆けあがるなんて」
「この区間を走るひとだけ、試走すればいいじゃない」
小田原中継所から、往路のゴール芦ノ湖までの区間は、五区と呼ばれる。そのほとんど
が、箱根の山を登る坂で占められていた。翌日の復路六区は、逆に下り坂ばかりになる。
標高差八百メートル以上を、一気に上がったり下がったりしなければならない。
各大学とも、五区と六区はそれぞれ、山上りと山下りのスペシャリストをエントリーす
る。走力だけではなく、山に向いた精神力と身体性が要求される区間だ。平坦な道を走る
のとは、勝手がちがう。延々とつづく上り坂を苦にしないねばり強さ、あるいは、急な下
り坂でも腰が引けることなく思いきってスピードに乗れる度胸が、五区と六区を走る選手
には必要だった。当然、脚に負担がかかるから、故障しにくい体であることが望ましい。