そろそろ、一区の走者が鶴見中継所に到着しはじめるころだ。ムサはかぶっていた毛糸
の帽子を脱ぎ、マフラーを取った。気温三・三度。風はほとんどなく、晴れているが、ムサ
にとってはつらい寒さだ。ムサは走と相談し、手首から肘上まであるアームカバーを着用
して走ることにした。これなら、暑くなったらはずし、ランニングのユニフォームだけに
なることができる。
「水分を摂りましたか。寒いと思っても、走ってるうちに脱水症状を起こすとまずいです
よ」
「これ以上飲むと、途中で立ちションせねばなりません」
とムサは笑った。ムサが「立ちション」などという言葉を使うのははじめてだ。「似合
わないです」と走も笑った。
走の持っている携帯テレビが、アナウンサーと解説者の声を伝える。
「二区は各大学が、エースまたはエース級の選手を投入しています。一万メートル二十八
分台の選手が、なんと二十人中十一人。留学生も四人がここで登場です」
「房総大のマナス選手、甲府学院大のイワンキ選手、西京大のジョモ選手、そして寛政大
のムサ選手ですね」
名前が出たので、ムサと走はテレビを見た。自分たちの姿が映しだされている。びっく
りして見まわすと、いつのまにか背後からテレビクルーが近づいてきていた。ムサはテレ
ビカメラに向かって、ぎこちなく微笑む。
「寛政大のムサ選手は、ちょっと異色の存在です。理工学部の国費留学生で、なんと去年
の春までは、陸上経験がなかったそうですよ。寛政大は十人だけで箱根に挑んでいます
が、ほとんどの選手が陸上未経験でした」
「それでここまで来たんですから、信じられませんよ。たいしたものです」
画面はスタジオに切り替わり、解説者がしきりにうなずいている。「かなり苦労して練
習したんだと思いますね」
「個性豊かな寛政大チーム。はじめての箱根でどんな走りを見せるのか、注目です」
CMになり、テレビクルーも離れていった。ムサは自分が紹介されたので、また緊張し
だしたようだ。いけない、なんとか気を紛らわせないと、と走は思った。
走の携帯が鳴った。五区を走るために、小田原中継所で待機している神童からだ。走は
通話ボタンを押してすぐに、携帯をムサに渡した。
「ムサ、テレビに出ていたね」
と神童が言った。ひどくくぐもった声だ。
「風邪の具合はいかがですか」
ムサは心配そうに言い、走も携帯に耳を寄せる。神童は大晦日に発熱し、今朝になって
も体調がすぐれなかった。
「僕は平気だよ。ムサこそ大丈夫? いまので緊張してるだろう」
「はい、少し」
とムサは答える。神童には鶴見中継所の様子が見えるのだろうか。走は、ムサと神童の
絆きずなの深さに驚いた。
「ねえムサ。楽しいことを考えるんだ」
神童は鼻声で言う。「これが終わったら、僕たちやっと正月だね。僕は冬休みのあいだ
に、一度実家に帰ろうと思ってるんだけど、ムサも一緒に行かないかい」
「いいのですか。ご家族で過ごすのでしょう」
「両親は、ムサが遊びにくるのを待ってるよ。なんにもない田舎だから、雪だるまを作る
ぐらいしか、することがないけれど」
「ユキダルマってなんですか」
「そうか、作ったことないんだ。じゃ、決定だね。一緒に帰省しよう」
「はい」
ムサはうなずいた。「ありがとうございます、神童さん」
電話を切ったムサは、もう迷いも怯えもない目をしていた。沿道の応援が一段と大きく
なる。ランナーの姿が見えてきたのだろう。走はムサと、道路に近づいた。
ベンチコートを抱えた清瀬が、京急鶴見市場駅のほうから走ってくる。清瀬は走とムサ
を見つけ、「まにあったか」と大きく息を吐いた。
「ムサ、調子はどうだ」
「良好です」
ムサは強く請けあう。清瀬はムサの表情とシューズの紐をチェックし、乱れがないこと
をたしかめた。
「よし。王子はたぶん、最下位でここに来る。だがきみは動揺せず、いつもどおり走れば
いい」
「最下位なら、これ以上悪くなりようがないから、気が楽です」
ムサはおどけてみせた。「それに、私は追われるよりも追うほうが性に合う」
「その意気です」
と、走はムサのベンチコートを受け取った。
六道大の選手が、トップで鶴見中継所にやってきた。鶴見中継所は、国道一号沿いの交
番前に設けられている。なんの変哲もない並木道で、平坦な直線のため、次々に走ってく
る選手がよく見えた。
連絡を受けた係員があわただしく、大学名を呼びあげる。その順で一区の走者が来るの
で、二区の走者は中継ラインまで出てチームメイトを待ち受けるのだ。
六道大の襷が、一区から二区の走者へリレーされた。大手町をスタートしてから、一時
間四分三十六秒後のことだった。つづいて横浜大、房総大、ユーラシア大の順に、ほとん
どタイム差なく襷が受け渡された。終盤まで団子状になっていたため、大接戦だ。
ムサは屈伸した。走は道路に身を乗りだす。次々に一区の走者が来て襷を渡し、二区の
走者が鶴見中継所から飛びだしていく。王子の姿はまだない。六道大が通過してから、三
十秒。
「王子さんです!」
大会車両の陰に、歯を食いしばって走る王子が見えた。係員が、まだ中継所に残ってい
た大学の名をいっせいに呼ぶ。ムサは「行きます」と道路に出て、中継ラインのうえに
立った。
ムサは王子に向かい、手をあげた。王子は必死に腕を振って走っていたが、ムサの姿に
気づき、思い出したように襷を肩からはずした。短パンのウエストのゴムが、叱しつ咤た
するように脇腹を軽く弾く。
もう少し、もう少しだ。
「王子さん! 王子さん!」
ムサと走が叫んでいる。走の隣で清瀬が、じっと王子の到着を待っている。
中継ラインを越えた王子は、走りはじめたムサの手に、握りしめていた襷を渡した。襷
は王子とムサを一瞬つなぎ、すぐに王子の指先からすりぬけていった。