「ハイジの注意したことを、覚えているかねムサくん! 覚えていたら、その場で三回前
転したまえ」
どうして、こんなデタラメなひとが監督なんでしょうか。ムサは笑った。笑うことで肩
の力が抜け、ますます冷静に脳が冴えていくのを感じた。
ムサは右手を軽くあげ、監督車に向けてOKサインを送ってみせた。
戸塚中継所では、ジョータとキングがビニールシートに座り、携帯テレビを見ながら話
していた。
「下位のチームは、なかなか映らないなあ。ムサはどうしただろ」
「しょうがないよ、トップ争いがすごいもん」
画面のなかでは、真中大がついに、六道大と房総大を突き放しはじめたところだった。
「でもムサさんならきっと大丈夫だよ」
そのときちょうど、画面に十五キロ地点通過順位が出た。寛政大は十八番目。選抜チー
ムを除くと十七位につけている。カメラが切り替わり、下位チームの攻防を映しだした。
ムサが、まえを行く五人の選手にどんどん迫っている。
「ほらね!」
「よっしゃあ」
ジョータとキングは、喜んで握手を交わした。
「座ってる場合じゃねえぞ、ジョータ。こりゃもしかすると、ムサはけっこう早くここに
来るかもしれない」
「俺、走るまえにはじっとしてたほうがいいみたいで」
ジョッグはとうに終えたジョータは、座ったままストレッチをするにとどめた。「キン
グ先輩さあ、そういえば就職活動はどうなってるの」
「なんでいま、そんな話すんだよ」
「べつのこと話してないと、キンチョーしちゃうんだもん」
「俺がイヤな汗かくっつうの、その話題は」
キングはふてくされたが、いまは三区を走るジョータの心を、平穏に保つのが使命だ。
しぶしぶと答えた。
「なんにもしてないよ。この生活で、どこに就職活動する暇があんだよ」
「ええー、どうすんの。就職浪人?」
「留年するしかないのかなあ」
キングは膝を抱え、ため息をついて空を見上げた。冬の青空に、薄く白い雲がかかって
いる。
「親は許してくれっかな」
こぼれたため息は、雲と同じ質感でわずかに漂い、空中に溶けた。
「留年、留年」
ジョータが体育座りの姿勢で、尻を支点に上体を前後に揺らす。「じゃあさ、来年もま
た、一緒に箱根に出ようよ」
「アホ、年が明けたばっかなのに、もう来年の話かよ。俺は出ねえぞ。またシュウカツで
きないじゃないか」
キングはジョータの提案を高速で却下し、そしてふと、口をつぐんだ。「……おまえ、
出る気なのか来年も」
「出るよ」
ジョータは立ちあがった。「出るに決まってるじゃん」
ジョータの目は、かつてないほど真剣な色をしていた。こいつ、やる気だ。出番を目前
に控え、燃え盛るジョータの闘志を感じ取り、キングも奮い立った。
「よっしゃ」
キングもビニールシートから腰を上げ、膝をのばした。「最後にちょっと流そうぜ、
ジョータ」
ジョータとキングは、ひとでごったがえす戸塚中継所のなかを、行ったり来たりと走り
だした。
ラスト三キロの地獄の上り坂を、ムサは意地だけで走っていた。
ユーラシア大を、坂の手前で振りきった。いまムサと併走しているのは、東京学院大
学、あけぼの大学、北関東大学、そして学連選抜チームの選手だ。まえを行く選手の姿
を、とらえることはできない。それだけ距離があいてしまっているのか、大会車両や地形
に阻まれて見えないだけなのか、わからなかった。
とりあえず、併走する四人の選手の動向をうかがうだけで手一杯だ。ここで遅れを取る
わけにはいかない。できればスパートをかけ、この集団から頭ひとつ抜けだして、三区の
ランナーに襷を渡したい。だれもがそう考え、仕掛けどころを計っていることが伝わって
くる。
ここまで来て、集団から最初に脱落したくない。
体力も精神力も限界を迎えていたが、その執念だけで、スピードを落とさずに進んでい
るような状態だった。
戸塚中継所は、上り坂の途中にある。あと五百メートル。防音壁のために、左手の景色
が遮られる。だが歩道にあふれた観客が、中継所が近いことを教えている。ムサは、すぐ
まえを行く学連選抜の選手が、自分以上に汗をかいているのを見た。併走するどの選手
も、荒い呼吸だ。もちろん、ムサも。
ここで行くしかない。ムサは学連選抜の選手をかわし、集団の先頭に出た。最後の、渾
こん身しんのスパートだった。
戸塚中継所で、ジョータにこの襷を渡せさえすれば。あとはもう倒れて起きあがれなく
てもいい。区間記録には遠く及ばないタイムだけれど、でもこれが私にできる全力の走り
だ。その走りを、残り数百メートルにぶつけずに、いつだれに見せる。
顎が上がり、長距離走者にふさわしくない無様なフォームになっていたが、なりふりか
まっていられない。中継所が見える。ジョータがゆっくりと手をあげたのが見える。ムサ
はぐっと前傾姿勢になり、ダッシュした。いつはずしたのか定かでないが、ジョータに向
けて差しのべた拳には、寛政大の襷が握られていた。
「エースの走りだったよ」
襷を受け取った手で、ジョータがムサの腕を二度叩いた。走り去るジョータの軽やかな
足音を、ムサは昏こん倒とうしたアスファルトから直接聞いた。
次に気がつくと、ムサはビニールシートのうえに寝かされていた。ラーメン屋と中古車
販売店の駐車場らしい。戸塚中継所は、地味な場所にあるんですね、とムサはぼんやり
思った。あたりは大会関係者と、走り終えた選手とそのつきそいのざわめきで満ちてい
る。意識を手放していたのは、ほんのわずかなあいだだったようだ。
「目ぇ覚めたか?」
キングの泣きそうな顔が、視界いっぱいに現れた。「よくやったなあ、ムサ」
キングの説明を受け、ムサは状況を把握した。ムサは最後の競りあいに勝ち、十三位で
戸塚中継所に到着したのだった。七チームをかわし、二十三キロを一時間十分十四秒で走
り抜いた。二区を走った二十人のなかで、十二番目のタイムだ。